城郭探訪

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伏見城に巨大土橋 (京都新聞2013.5.14)

2013年05月15日 | 平城

伏見城に巨大土橋 

伏見城跡の大半を含む桃山陵墓地。手前は明治天皇陵=京都市伏見区でヘリから 

豊臣秀吉や徳川家康の居城だった伏見城跡(京都市)のほぼ全域を研究者団体の大阪歴史学会や京都府教育委員会が調査し、巨大な土橋や創建当初のものとみられる豪壮な石垣などを確認したことが13日、分かった。伏見城は築城の名手と呼ばれた秀吉が最後に造った。

 同じ場所に明治天皇陵が造営されたことから、遺構の大半は桃山陵墓地として立ち入り規制され、研究が進んでいなかった。天下統一後の秀吉の権勢や高い築城技術を示す一級史料になりそうだ。

 城跡は80万平方メートル(東京ドーム17個分)に及び、宮内庁が陵墓地でこれほど大規模な文化財調査を許可するのは異例。

 関係者によると、本丸と二の丸を渡る巨大な土橋(長さ約40メートル、幅約5メートル)や幅数十メートルの堀、天守の土台(一辺十数メートル、高さ約5メートル)など多数の遺構を確認した。

 各地の自然石を積み上げた秀吉時代に特徴的な石垣は高さ約7メートル、長さ約20メートル分が残っていた。花こう岩を割り出した徳川期とみられる石垣には長辺1・8メートルの巨岩を用いていた。

 同学会と共同調査する中井均滋賀県立大教授(城郭史)は「建物や石垣は廃城時に大半が他の城へ移築されたが、基礎部分がよく残っており驚いた。秀吉や家康の城で地上に痕跡をとどめている例はほとんどなく、非常に貴重。陵墓ではない部分だけでも一般公開してほしい」と話す。

■京都府教委は概略図作成

 京都府教委は、中世城館遺跡の分布調査として2012年と13年の2回に分けて伏見城の遺構調査を実施。それまでの調査を総合して、城跡の範囲を示す概略図を作成した。

 府教委によると、伏見城跡の範囲は、城下町を囲む土塁と堀を含めると東西3km、南北2km以上に及び、主要部は大規模な面積を持つ本丸や二の丸などの建物で構成されていた。

 府教委は近年、府内各地の中世城館遺跡の調査を進めており、磯野浩光文化財保護課長は「これまでの調査で伏見城の主要施設の配置などが分かった。周辺地域の開発から城跡を守る有益な資料となる」と期待している。本年度中に、さらに詳細に設計などを記した縄張り図を作製し、調査結果をまとめる。

 概略図は、府教委文化財保護課のホームページで公開している。

<伏見城>豊臣秀吉が天下統一後の1592年から、京都市伏見区に築き始めた城。4年後の慶長伏見地震で天守の上層が崩落し、近くの山に建て直されたが、関ケ原の戦いに先立つ「伏見城の戦い」で焼失。家康が再建し、江戸に幕府を開いた後も上方支配の拠点として重視した。廃城後は天守が二条城(京都市、後に焼失)、石垣は大坂城、やぐらは福山城(広島県)などへ移築。城跡の山一面に桃の木が植えられたことから、秀吉の世を桃山時代と呼ぶようになった。

<陵墓地>一定規模の敷地内に複数の陵墓が存在する「皇室の墓域」。宮内庁によると、官報で明確に範囲が定められているのは昭和天皇陵などがある「武蔵陵墓地」(東京都)だけだが、慣例として「桃山陵墓地」(京都市)、「泉山陵墓地」(同)、「畝傍陵墓地」(奈良県橿原市)などの名称で同庁が管理している墓域がある。桃山陵墓地が最大で、面積約80万2500平方メートル。明治天皇陵と同皇后陵、桓武天皇陵があり、伏見城跡の大半が含まれている。