ここから城域?武者走り(霊仙山の眺望)
所在地:米原市番場町 (旧坂田郡米原町番場) map:http://yahoo.jp/_dDl6b
区 分:山城
築城期:南北朝期(天文~元亀年間)
築城者:土肥三郎元頼
城 主:門根帯兼頼氏男 堀 次郎、樋口次郎左衛門、樋口三郎兵衛
遺 構:堀切・虎口・主郭(穴蔵型)、郭、土塁、石垣・・現地説明板
城 域:430m×220m
標 高:384m 比高差:254m
戦 い:天文7年(1538) 〇六角定頼vs ●浅井亮政
鎌刃城跡:国指定史跡
訪城日:2014.6.1(鎌刃城まつり 2度目)
城の概要
鎌刃城は霊仙山の東尾根から派生する支尾根の東端に築かれ、中山道の番場宿を見下ろす位置にある。
番場宿は西には琵琶湖の水運を利用できる朝妻港を控え、東は美濃、南は京へと続く中山道と、木之元宿を経て越前に通じる北国街道が交差する交通の要衝にある。
こうした要衝の地をめぐって、天文年間から永禄年間にかけては江北の浅井氏と江南の六角氏の戦いが繰り返され、中山道に沿っては鎌刃城以外にも菖蒲岳城、太尾山城、および地頭山城などが点々と築かれている。
鎌刃城は尾根頂部の主曲輪を中心として、北と東に延びる尾根上には連郭式に曲輪が配され、南尾根は幅2mほどの痩せ尾根にもかかわらず8条の堀切を入れるなど徹底した防御が図られている。
鎌刃城の名前は、この尾根の形状が鎌の刃状であることに由来しているのかもしれない。
主曲輪から延びる北尾根には小曲輪も含め7つの曲輪を階段状に築き、尾根の先端は3条の堀切で処理している。
また、西に延びる尾根にも小曲輪を連ね、堀切と切岸による防御が主体であるが、尾根の先端部斜面には3条の畝状堅堀を配するなど、近江では数少ない防御パーツも使われている。
こうした連郭式の縄張りを持つ鎌刃城が、他の中世城郭と一線を画するのは、石造りの城という点にある。
1999年から発掘調査が実施されるまでは、石垣といえば主曲輪から東に延びる尾根先端の曲輪(ここでは、仮に三の曲輪としておく)の南斜面に高さ3~4m、長さ40mほどの石垣(通称:大石垣)だけであった。
しかし、1999年から2002年までの3年間に渡る発掘調査で、主曲輪周囲を石垣で固め、虎口は山城としては異常に大きい石造りの枡形虎口を備えていること、また三の曲輪にも石造りの枡形虎口を有するなど、要所要所は石積みで固められていることが判明した。
鎌刃城の石積みは地山で産出する石灰石が用いられ、石を積み上げるというよりは、石と石との間を粘土で固めたといった造りで、白い石と赤茶色の粘土のコントラストが印象的である。
なお、城内の石積みは主要部分を除いては発掘調査終了後に埋め戻しされている。
山麓の蓮華寺には鎌刃城城主の土肥三郎元頼の墓がある。
また、蓮華寺は元弘3年(1333)後醍醐天皇に味方する足利高氏(尊氏)に敗れた六波羅探題の北条仲時が鎌倉へ落ちる途中、京極高氏(佐々木導誉)に行く手を阻まれ、北条仲時以下432人が自刃した寺で、境内には自刃した北条仲時以下432人の供養塔もある。
北条仲時
元徳2年(1330年)11月(7月21日)、鎌倉を発ってする。12月27日、六波羅探題北方となる。
元弘元年(1331年)の元弘の乱で、挙兵して笠置山(京都府相楽郡笠置町)に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流する。さらに護良親王や楠木正成らの追討・鎮圧を担当する。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月、後醍醐の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められて落とされると、5月7日に六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国(滋賀県)で野伏に襲われて時益は討死し、仲時は同国番場峠(滋賀県米原市)で再び野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺に至り天皇と上皇の玉輦を移した後に、本堂前で一族432人と共に自刃した。享年28。この史実は、『増鏡』、『梅松論』、『太平記』に詳しく記載されている。天皇と上皇は道誉に保護されて京都へ戻された。蓮華寺には自刃した432人の五輪塔群がある。
大石垣
小石垣
歴 史
『江州南北諸士帳』に番場鎌刃城主 門根帯兼頼氏男 堀 次郎、樋口次郎左衛門、樋口三郎兵衛とあり
『江州南北諸士帳』に番場 住 佐々木随兵鎌倉平氏 土肥三郎、同 同男左京進とあり
鎌倉幕府成立頃から頼朝の家臣として活躍した土肥氏は、箕浦庄の地頭として下向した。土肥氏はその後、番場・多和田・醒井をそれぞれ分派に与え、箕浦庄の三土肥と称された。
番場に居を構えた土肥氏は、その後もこの地で活躍して室町時代に鎌刃城を築いたとされるが、それ以前に居城としたのが番場城と殿屋敷であったのではないかと推測される。
鎌刃城は鎌倉時代に箕浦庄の地頭であった土肥氏の居城として築城されたと伝えられている。
しかし、土肥氏は番場に残る「殿屋敷」に居城していたと考えられ、鎌刃城は番場地区から離れた山中にあり、在地支配の城(仕置きの城)ではなく、軍事目的で築かれた城ではないかと考えられている。
一説には、鎌刃城近くを通る間道(通称年貢道)を押さえる城であったともされる。
鎌刃城は江南の六角氏と江北の京極氏や浅井氏の国境に立地していることから、「境目の城」として、文献にも文明4 年(1472)以降に登場し、室町時代に築城されたと考えられている。
六角氏方の今井氏が京極氏方の堀氏の守備する鎌刃城を攻めたことや、堀氏が後に六角氏方に降り、再入城したことなどが知られている。
元亀元年(1570)堀氏は姉川の戦いに際し、樋口氏と共に織田信長に降り、翌年5月6日浅井長政に鎌刃城を攻められている。
この時横山城(長浜市)を守備していた木下籐吉郎(後の豊臣秀吉)が応援に駆けつけ、長政軍を撃退したことが「信長公記」に記されている。
北曲輪の枡形虎口
穴型主郭CG復元図
北の郭で記念撮影
主郭虎口の西角石垣
主郭の枡形虎口(北向き)