城郭探訪

yamaziro

森城  近江国(田上)

2014年06月24日 | 平山城

 

お城のデータ

所在地:大津市森3丁目   map:http://yahoo.jp/ly3ara

区 分:山城

現状:下屋敷は竹林、詰め城は雑木林

遺 構:曲郭・石垣・石橋・土塁・虎口・土壇

目標地:善正寺・八幡神社・森バス停

築城期:

築城者;

標 高:212m   比高差:100m

訪城日:2014.6.23

 

お城の概要

下屋敷(善正寺と八幡神社の間の竹林一帯)

地割、石垣、石橋(ノミ跡付)等残存する、また、獣害柵で仕切られてはいるが、竹林も含めて整備されている。

詰め城は、獣害柵内に入り約100m尾根道を登ると、頂部は黄色のテープ10m×10mの方形削平地、東側は3m下に犬走り、北側に枡形虎口を設ける。虎口手前に巨石(川石=門丸み・・自然石や削岩石でなく)に圧倒される。尾根道からは、左右に横矢土塁を散見する。

 

下屋敷

                    

歴 史

詳細不明

「近江與地志略」には森村の古城跡として「森村の山に在り。此の地を城が腰といふ」と記されている。

現在、地元で知る人はいません。「堀ノ内」「北木戸」と言った城に関係するかとも考えられる地名が残る。

          定雄池  

詰め城へ

墓地への参道墓地手前の獣害柵沿い獣害柵の開閉口

詰め城へ登城開始  尾根道は綺麗。進む    

頂部削平地    3m下の犬走り 虎口下の巨石  

石仏円柱の「夕照山 善正寺」 善正寺前の空き地城道「墓地参道」・・林が城祉

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、大津の城郭

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


中野城 近江国(田上)

2014年06月24日 | 平山城

お城のデータ

所在地:大津市中野3丁目2-2  map:http://yahoo.jp/S4M_fu

目標地:荒戸橋(田上川)、荒戸神社

現 状:神社境内・鎮守の森

遺 構:削平地、砕石材、神社土塁

築城期:

築城者:田上氏(土豪)

標 高:160m   比高差;10m

訪城日:2014.6.23

 鳥居と神社参道の中間点東側に削平地あり、背後に5m超の土塁あり。

          崩れた石垣カ?砕石材の集積カ?  

歴 史

詳細不明

田上の土豪中野氏の居城と伝えられています。

位置は標高160mの荒戸山の北麓、荒戸神社(中野3丁目2-2)の境内の一角を占める台地と言われています。

 佐々木氏流青地としては、基綱の子忠綱がはじめて青地城を築き、近江源氏七頭の一人として湖南を支配するようになったと伝えられる。
基綱が青地氏を相続してのちの弘安四年(1281)、その子基氏は一族とともに小槻大社に神櫃を寄進している。この櫃の銘文から青地一族が惣領基氏を中心とする武士団を結合していたことが知られる。その後、惣領は基氏から弟忠綱の子である冬綱に継承されたようだ。冬綱は近江守護代を務め、その権勢は同地の豪族田上・沢氏らを押えて、ひときわぬきんでていた。

 

中野城・・・遠景(荒戸橋より) 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、大津の城郭

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


木部城 近江国(野洲郡・木部)

2014年06月24日 | 居城

お城のデータ

所在地:野洲市木部町  (旧中主町木部)  map:http://yahoo.jp/-ah7r2

現 状:竹藪

遺 構:土塁・石材・堀痕(側溝・用水路)

区 分:平城

築城期:

築城者:

訪城日:2014.6.15

   

お城の概要

木部集落の西端に、竹林が残っている。竹林ないは地割・土塁の一部が残っているが、宅地化・道路拡幅(堀埋め)大きく破壊されている。

竹林の東側には、空き地になり地割の石材や砕石石材多く残る。集落内も細く、迷路のごとく複雑で、堀を埋め道路拡幅。

歴 史

詳細不明

江戸期は領主 旗本上田氏。

 旗本の知行形態には、知行取りと蔵米取りがありました。知行取りは実際に領地(知行地)が与えられ、ここから年貢を収納し、大名領に準じた独自の領内経営を行っていました。蔵米取りは領地は与えられず、幕府の直轄地から収納した蔵米の中から決まった額の米が支給されました。

  初代・重秀が寛永十二年に賜った知行所は、近江国野洲郡内八ヶ村でした。現在、守山市域に含まれる森川原、服部、立花、小浜、中主町に含まれる木部、比江、小比江、吉川の各村で、そのうち、木部、小比江は他の領主と相給でした。

城址の西側の墓地

木部城・・遠景(南側より) 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、木部誌

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


明智左馬之助 湖を駆ける!

2014年06月24日 | 武将

 

明智左馬之助湖水渡りのところ 

 天正10年(1582)6月2日、明智光秀は主君・織田信長を本能寺に攻めて自害させ、天下を奪ったが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、その野望は消え失せた。光秀の弟左馬助光春は、信長の居城・安土城を攻めていたが、兄の死を聞いて急ぎ坂本城へ引き返す途中、打出浜より路を湖水に求め愛馬にまたがりびわ湖を渡り坂本に帰った。しかし、時すでに遅く、秀吉の軍勢に囲まれ、6月14日、光秀の妻子らとともに、城と命運をともにした。湖水渡りの勇姿は、今も講談などで語りつがれている

  

明智左馬助の湖水渡り(歌川豊宣画「新撰太閤記」)

 
明智左馬助湖水渡りの碑(滋賀県大津市打出浜)

坂本城の推定城郭部分/国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

 
 

前半生

『明智軍記』などによると、秀満(同史料では「光春」)は明智氏の出身とされる。明智光秀の叔父である明智光安の子(「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると次男)であり、光秀とは従兄弟の関係にあったとされている。別号として三宅氏を名乗った時期もあるとされている。

秀満の前半生は『明智軍記』を始めとする俗書でのみ伝わっている。

明智嫡流だった明智光秀の後見として、長山城にいた父・光安に従っていたが、弘治2年(1556年)斎藤道三と斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城する。その際、父は自害するが、秀満は光秀らとともに城を脱出し浪人した。

後半生

天正6年(1578年)以降に光秀の娘を妻に迎えている。彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため離縁されていた。その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは、天正10年(1582年)4月である。

天正9年(1581年)、丹波福知山城代となる。

天正10年(1582年)、光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、羽柴秀吉との山崎の戦いでは光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入った。

  秀吉方の堀秀政軍に城を囲まれた秀満は、光秀が所有する天下の名物・財宝を城と運命を共にさせる事は忍びないと考え、それら名物をまとめて目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろした。そして「寄せ手の人々に申し上げる。堀監物殿にこれを渡されよ。この道具は私物化してはならない天下の道具である。ここで滅してしまえば、この弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」と叫んだ(『川角太閤記』)。しばらくの後、直政と秀政が現れ「目録の通り、確かに相違ござらぬ。しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がござらぬのは、如何いたしたのか」と返すと「その道具は信長公から光秀が拝領した道具でござる。

 吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉殿の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと、内々に秘蔵されていたものなので、我が腰に差して、光秀に死出の山でお渡ししたく思う。この事は御心得あれ」と秀満は返事し、秀政・直政らも納得した。

6月15日の夜、秀満は光秀秘蔵の脇差を差したまま、光秀の妻子、並びに自らの正室を刺し殺しあるいは介錯し、自ら城に火を放って自害したとされる。享年は俗書に従えば47。『兼見卿記』では、同年に処刑された秀満の父(名は不明)は享年63とされる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、Wikipedia

 

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