城郭探訪

yamaziro

瓜生津城 近江国(八日市)

2014年06月22日 | 居城

お城のデータ

所在地:東近江市瓜生津町      map:http://yahoo.jp/Mr8NKL

  (旧八日市市瓜生津町

別 名:瓜生城

目標地:弘誓寺・瓜生津バス停

区 分:平城

標 高:200m  比高差:0m 

現 状:寺院

遺 構:土塁・堀痕

築城期:室町期

築城者:布施氏

訪城日:2014.6.23

第二番札所 金剛山 弘誓寺 滋賀県東近江市瓜生津町 1314-1

 門前に二本の松の木が在り、茅葺きの山門の柱を新しくする改修をし古きを守る姿は好い景色で在る 山門を過ぎれば親鸞聖人像が在り此処も松の木が在る 大本堂は軒柱を立てる真宗によく見る姿で向拝を廣く取って堂横には大庫裏を置く

     

弘誓寺裏・国道307号の間の竹林内の土塁残存する。

お城の概要

 集落内に「横堀」の名が、小字西大野・小字大久保・小字下り松に、またがり残る。

現在は、集落内は迷路のようにで、道路も狭く屋敷町の様相であり、西側は蛇砂川であり、東側は堀痕、弘誓寺北側の竹林に土塁が残る。

歴 史

 布施氏邸  

 布施氏は市邊村布施を本據とすれども一族繁茂して後は瓜生津に住めしものあり、佐々木南北諸士帳に瓜生津城主布施九朗 布施九郎左衛門 布施新藏人等名を記す大字布施にも城屋敷と偁する所あり、布施氏在住の邸と傳ふ。・・・蒲生郡誌八巻三八八頁

竹林(土塁)と弘誓寺(館跡)国道307線下東側より

 

向かいの「慈願寺」

佐々木六角の重陣、「狛氏の持念仏」が慈願寺会館に

金柱という仏像は、現在、東近江市瓜生津町にある慈眼寺の国指定重要文化財 「聖観音金銅像」 であるという説があるのです。
 その訳は、慈眼寺の仏像縁起庸約によると、西天竺の毘首羯摩(びしゅかつま) (伝説化された架空上の仏工)の作で、 その頃までは佐々木六角一族が安置し、 城の名も観音寺城とし朝夕参拝していた。

 しかし信長の上洛戦で落城し、その際、家臣毛利知行が仏を滋賀県愛知郡の当時天台宗東光寺(現浄土宗)に預けるべく、背負いながら多
 勢の敵に迫られ愛知郡平柳村の池に飛び込み死亡した。

 その後相当な期間を置いた慶長年中(1596~1615)のこと、 夜な夜な光るものがあり、ある男が仏像を拾い上げてそれを自宅で供養していたところ、ある日僧が現れ、その仏像を慈眼寺に移して安置した旨が記されてあるそうです。

                
         聖観音金銅像 (高さ40.2㎝ ・ 国指定重要文化財)八日市市史等掲載

   狛の長者達渡来人が小脇郷に住み始めたのが天智天皇の大津京時代となる西暦669年頃からとされています。その後、約340年に亘り地域の開拓、繁栄を築いていたところ、 大凡(おおよそ)1010年頃から佐々木六角一族の三代目となる佐々木経方の時代に支配下の小脇の館に住むようになったのです。 その三代後の秀義の時に平治の乱が起こり、平氏の天下となった20数年間は関東に流れていたものの、源平合戦での功績を認められて復活し、その後約400年間の安泰が続きました。
 
   しかし盛者必衰の例えの如く織田信長の上洛戦により1568年9月12日滅亡となったのです。 それまでの約550年の間金柱の仏像は佐々木六角一族が祭っていたのではないか ・ ・ ・ 歴史的な資料が無く、気の遠くなるような遠い昔の話です。  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、蒲生郡誌、ウィキペディア

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


殿屋敷城 近江国(永源寺)

2014年06月22日 | 居城

お城のデータ

所在地:東近江市上二俣町・高木町の中間      map:http://yahoo.jp/uIibhk

  (旧神崎郡永源寺上二俣小字鍛冶屋(かじや)・高木小字林)  

目標地:交差点の八大龍三

区 分:居館」

標 高:203m  比高差:0m 

現 状:水田

遺 構:不明(破壊・移設?)

築城期:室町期カ

築城者:高木氏カ

訪城日:2014.6.23

中央の多段の比高差が気になる

お城の概要

 高木と上二俣の間500m程の中間、標高203mの水田地帯。縦・横120mの概ね方形に一区画あり、この一画は小は2~3㎡、大は10㎡の畑無数にあり。周囲はすべて100~120坪の区画水田。・・・・

現在は、圃場整備で、水田に改変された。滋賀県中世城郭分布調査4(1986.3)の31頁「殿屋敷城」の稿・・・約30年で大きく様変わり。

歴 史

高木町小字林の鍛冶屋(かじや)、上二俣小字かじや・・・共に「かじやの畑」と呼ばれ、畑作のみであった。

 蒲生郡誌の古蹟名勝誌編では「大字高木に在り、此の区域不規律なれども三方堀を回らし、南側は道路なり、是れ後半道路改修のため土手と堀を壊ちしものならん、住者の氏名詳ならず今に城跡又は殿屋敷と称す」区域は明確たが、城主は言伝え。

 淡海温古録の高木の項には、「高木助六、蒲生家ニ出ズ」と記すは高木助六朗盛重であるが、居所は不明。現今の城郭史家が「高木左近義清、右京亮義賢は佐々木六角の家臣にて、高木城主であった・・・」高木の地名は近江八幡金田地区高木、野洲群篠原高木・・・・。

   

「下司(かじ)殿屋敷跡」とする根拠は、文亀元年4月記書、複写之、慶長12年と標記された、「玉緒郷市原野荘絵図」の中で、白鳥神社別当東大寺荘厳寺の位置(堂堤)の南方で、高木と二股里(上二俣)の丁度地点に下司館、隣りに鍛冶屋が描かれている。・・・・。

 「永源寺町 歴史探訪Ⅰ」に、高木の刀匠貞宗・伝(80頁)刀鍛冶の巨匠五郎正宗の高弟、高木貞宗について、蒲生郡誌は、「貞宗は近江高木村の人。初名は「弘光、又は助貞とい、彦四郎と称す、相模の五郎正宗諸国周遊の際、師弟の契約をなし鎌倉へ移住の後遂に其の養子となり名を貞宗と改む。聖和年間の人、元応、建武年間の人、或いは永仁六年に生まれ、貞和五年に没し年五一なり」「市原村高木は高木彦四朗貞宗の出でし村なりと伝う。上二俣に小字鍛冶屋あり、慶長検地もこれを記す。小字カコヤ藪の竹は刀剣用に賞味された」とある。徳川時代に伊井藩は課税免除された。

 

近くに「八大龍王」が神社土塁、堀池が

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E9%BE%8D%E7%8E%8B%E7%A5%9E

      交差点に「八大竜王」

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!