お城のデータ
所在地:東近江市瓜生津町 map:http://yahoo.jp/Mr8NKL
(旧八日市市瓜生津町
別 名:瓜生城
目標地:弘誓寺・瓜生津バス停
区 分:平城
標 高:200m 比高差:0m
現 状:寺院
遺 構:土塁・堀痕
築城期:室町期
築城者:布施氏
訪城日:2014.6.23
第二番札所 金剛山 弘誓寺 滋賀県東近江市瓜生津町 1314-1
門前に二本の松の木が在り、茅葺きの山門の柱を新しくする改修をし古きを守る姿は好い景色で在る 山門を過ぎれば親鸞聖人像が在り此処も松の木が在る 大本堂は軒柱を立てる真宗によく見る姿で向拝を廣く取って堂横には大庫裏を置く
弘誓寺裏・国道307号の間の竹林内の土塁残存する。
お城の概要
集落内に「横堀」の名が、小字西大野・小字大久保・小字下り松に、またがり残る。
現在は、集落内は迷路のようにで、道路も狭く屋敷町の様相であり、西側は蛇砂川であり、東側は堀痕、弘誓寺北側の竹林に土塁が残る。
歴 史
布施氏邸
布施氏は市邊村布施を本據とすれども一族繁茂して後は瓜生津に住めしものあり、佐々木南北諸士帳に瓜生津城主布施九朗 布施九郎左衛門 布施新藏人等名を記す、大字布施にも城屋敷と偁する所あり、布施氏在住の邸と傳ふ。・・・蒲生郡誌八巻三八八頁
竹林(土塁)と弘誓寺(館跡)国道307線下東側より
向かいの「慈願寺」
佐々木六角の重陣、「狛氏の持念仏」が慈願寺会館に
金柱という仏像は、現在、東近江市瓜生津町にある慈眼寺の国指定重要文化財 「聖観音金銅像」 であるという説があるのです。
その訳は、慈眼寺の仏像縁起庸約によると、西天竺の毘首羯摩(びしゅかつま) (伝説化された架空上の仏工)の作で、 その頃までは佐々木六角一族が安置し、 城の名も観音寺城とし朝夕参拝していた。
しかし信長の上洛戦で落城し、その際、家臣毛利知行が仏を滋賀県愛知郡の当時天台宗東光寺(現浄土宗)に預けるべく、背負いながら多
勢の敵に迫られ愛知郡平柳村の池に飛び込み死亡した。
その後相当な期間を置いた慶長年中(1596~1615)のこと、 夜な夜な光るものがあり、ある男が仏像を拾い上げてそれを自宅で供養していたところ、ある日僧が現れ、その仏像を慈眼寺に移して安置した旨が記されてあるそうです。
聖観音金銅像 (高さ40.2㎝ ・ 国指定重要文化財)八日市市史等掲載
狛の長者達渡来人が小脇郷に住み始めたのが天智天皇の大津京時代となる西暦669年頃からとされています。その後、約340年に亘り地域の開拓、繁栄を築いていたところ、 大凡(おおよそ)1010年頃から佐々木六角一族の三代目となる佐々木経方の時代に支配下の小脇の館に住むようになったのです。 その三代後の秀義の時に平治の乱が起こり、平氏の天下となった20数年間は関東に流れていたものの、源平合戦での功績を認められて復活し、その後約400年間の安泰が続きました。
しかし盛者必衰の例えの如く織田信長の上洛戦により1568年9月12日滅亡となったのです。 それまでの約550年の間金柱の仏像は佐々木六角一族が祭っていたのではないか ・ ・ ・ 歴史的な資料が無く、気の遠くなるような遠い昔の話です。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、蒲生郡誌、ウィキペディア
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