城郭探訪

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西浜城 近江国(高島・マキノ)

2014年06月29日 | 丘陵城

 

お城のデータ

所在地:高島市マキノ町西浜  (高島郡マキノ町西浜)  map:http://yahoo.jp/NiTtt9

現 状:集落・田畑・マキノ東保育園・誓行寺ほか

区 分:平城

遺 構:土塁、旧海津港

築城期:

築城者:

城 主:井関氏

目標地:誓行寺・マキノ東保育園

訪城日:2014.6.28

 

庄境川 

お城の概要

 西浜城は、海津山城のある山崎山と琵琶湖に挟まれた湖岸沿いの西浜の集落内に位置する。

この西浜の地は、もとは東隣りの大字海津とともに海津村の一部で、鎌倉期に東浜と西浜に分かれ、現在は東浜側を海津と呼ぶが、海津港が西浜に位置していることや、町並みの雰囲気を見ていると、この一帯が最も中心地という。

集落の東端は東浜との境をなす庄境川が流れ、川沿いに誓行寺があるが、この誓行寺付近に江戸時代は代官所が置かれていた。そしてその裏手に井関氏の居館があったという。

 現在、誓行寺の北にマキノ東保育園、誓行寺と青光院との間に土盛りを伴う竹薮があり、この付近に井関氏の居館があったと。

また誓行寺の湖岸道路沿いが、不自然に桝形状になっていることが、城遺構。付近では海津浜の石積みも楽しめる。

 旧海津港跡海津浜の石積み 

歴 史

 海津の地は、古くから京から北陸への湖上交通の地として栄え、この要衝の地をめぐり、幾度として争奪戦が繰り広げられた。
戦国期の海津は、菅浦と大浦(現西浅井町)の寺社対立や、京極氏と六角氏、浅井氏と六角氏等の対立戦場となっていた。その都度東浜と西浜の対立もあったという。

 往時この集落の北側と西側にはそれぞれ内湖が存在し、それらが水路で結ばれ環濠集落を形成していた。誓行寺・青光院・西栄寺・蓮光寺・万明寺がこの地に密集していることからも、ここに土豪の居館や寺院が存在していたカ。 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 

 
 
 
 

西 与一左衛門と海津浜の石垣

2014年06月29日 | 武将

    

 

 マキノの町の湖岸海津浜の石垣は、元禄14年(1701)に西浜の属する高島郡甲府領の代官となった西与一左衛門が、元禄16年(1703)に幕府領の海津東浜の代官 金丸又左衛門重政と協議し、幕府の許可を得て、湖岸波除石垣を西浜に495.5m、東浜に668m築いたもの。

「元禄14年に・・・西与一左衛門が風波のたび宅地に被害の甚だしいのをあわれんで石垣を築いた。・・・・この石積みのおかげで水害がなくなった。村人たちがその業績をたたえ、院内に碑を建立し、毎年3月15日には、西与一左衛門の法会が営まれている。」

築造前の状況を『大崎寺文書 』(天和2年(1682年))では、次のように語っています。
 「・・最前より御訴訟申し上げ候とおり、浜がわに私どもの住み居り屋敷13 軒は、波除け石垣崩れ少しの風波にも家へ水が入り、難儀に仕り儀にご座候ゆえ、ご慈悲に願いの通り、入用銀6貫19匁5分をお貸し下され成され候ハバ、有難く存じます・・ ・・」(読下し文)とあります。

 村人達は、度重なる大波によって石垣が崩れ、被害に苦しみ借財を重ねていました。このような中、元禄14年、西浜村に甲府藩領代官・西与一左衛門が就任しました。 村人達の苦しみに同情した彼は、就任早々に石垣築造の偉業を成し遂げ、しかも、費用を村民の負担による「自普請」でなく、お上が負担する「御普請」であったといいます。

 西与一左衛門は、思いやりと実行力のある人物で、西浜・蓮光寺入口の案内板には、次のように書かれています。 「元禄14年に・・・西与一左衛門
が風波のたび宅地に被害の甚だしいのをあわれんで石垣を築いた。・・・・この石積みのおかげで水害がなくなった。村人たちがその業績をたたえ、院内に碑を建立し、毎年3月15日には、西与一左衛門の法会が営まれている。」

元禄14年(1701)現在の高島市マキノ町西浜の代官として着任した武士。年貢を減らすこと に尽力し、農民や漁民に慕われた。

  海津の石垣が築造されたのは、江戸期の元禄16年(1703年)です

海津西浜は水害から守られた。この石垣は嵐のたびに何度も改修され今日に至っている。

海津の古い伝統的な町並みは石垣より少し内側に、石垣と平行に通る街道の両側に展開する。その中に地酒の醸造元や、400年以上の伝統をもつ醤油醸造の家などがある。

海津西浜の街道の中程に海津天神社への参道がある。その参道より南側の街道の両側では切り妻造りで、街道に妻側を向けた妻入りの民家が多いのに、その北側では棟を街道と並行にした平入りの商家が多い。敷地の関係でそうなったと思われるが面白い現象である。妻入り、平入りに関係なく中二階の民家が多い。中二階は真壁造りでなかには出格子をはめた民家もあり、屋根は桟瓦葺である。

 

参考資料:高島市広報誌「歴史散歩」、海津の石垣

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


海津(海津西内・海津東)城   近江国(高島・マキノ)

2014年06月29日 | 平山城

 

  校門前の舟溜り

お城のデータ

別名 海津西内城・海津東内城 

所在地:高島市(旧高島郡)マキノ海津町 map:http://yahoo.jp/nFUjfz

目標地:マキノ東小学校

区 分:平城  

標 高:97m 比高差:0m

現 状:小学校・宅地・田畑

遺構等:堀、石垣

築城期:戦国期

築城者:海津氏

訪城日:2014.6.28

お城の概要

 現在の大字海津のほぼ中央に位置する、小字西内にあるマキノ東小学校付近が海津城であった。明治期頃までは小学校の東側には大きな中島があり、内湖と琵琶湖を結ぶ2つの水路の合流点が、現在の校門前の舟溜りとして残っている。

 戦国期は海津城、江戸時代には代官所があり、海津地区の中心であったこの地に、現在では城遺構は見られない。ただ町並みの随所に、枡形のような巧みな地形が見うけられる。

 海津城は西内城と東内城と二つの城域がありますが、海津城というと西内城の事になる。西内城は現在は小学校敷地となっていて遺構は残っていませんが、堀跡は、舟入のクランク状の水路と石垣(江戸期の)、校門の前に土塁痕の様に土壇があり、往時の雰囲気があります。

 東内城は宅地・田畑に。集落の裏手の田畑(集落と国道の間)にポツンと祠があります。

湧水池

歴 史

 海津城は、『浅井三代記』には海津政元の居城であったと伝える。この政元の出自は田屋氏で、のちに浅井氏に入った浅井明政を指す。
(西内城):田屋氏一族の海津政元の居城。

古文書『菅浦文書』に、                                                                                                 年未詳11月2日 浅井直房書状「海津滞留」。天文15年7月1日 蓮花会入目日記「大和守(浅井政信)殿かい津らつきやう(落居)。天文15年7且3日 蓮花会入目日記「かい津らつきやう(落居)いし面」。年未詳5月19日 清水吉清書状「海津」。年月未詳21日 浅井井伴書状「かいづへ米を甘石遣度候」。とあり。

海津氏は田屋氏と同様に浅井氏に従い、元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)の間に織田氏に攻められて落城したと考えられます。

江戸初期(慶長期)には幕府代官の白崎氏の居館、天明六年(1786年)以後は大津にあった大和郡山藩(柳沢氏)の代官所がここに移転しています。

マキノ町海津は、琵琶湖の西側の最北部、平安時代から湖上交通の北辺の要路にあたり、平安後期には海津湊として発展していた。

 室町時代には北陸の諸荷物や年貢米が、敦賀から海津・塩津を経て、船で大津方面へ輸送されていたので、大津・坂本・今津とともに商取り引きの重要な港であった。北国・東国から京都・大坂への交易は敦賀まで船で、敦賀から陸路七里半越えなどで海津・大浦・塩津まで運び再び船で大津までと、小浜から陸路九里半越えで今津まで、後大津まで船の方法があった。

 江戸時代、海津三町(海津東町、海津中村町、海津中小路町)は初期より幕府領であったが、寛文8年(1668)から中村の多くが加賀藩領になった以外は、享保9年(1724)までは幕府領であって、その後は加賀藩領を除いて以後大和郡山藩領となっていた。
西廻り航路が開通するまでは、北陸地方と海津を結ぶ七里半越えと、海津から京都・大津への湖上の交通とを結ぶ重要な港として栄えた。延宝~享保(1673~1736)頃には、100石積以上の大型丸子船を60~75艘も保有し、200人前後の加子(舟乗り)がおり、6、7軒の回船問屋が軒を並べていた。

 江戸時代の寛永の初め(1624)ころには、海津宿を経由して大津方面へ運ばれる北国諸大名の御城米は、年間三十万石(75万俵)もあったが、西廻り航路が寛文12年(1672)に開通し、裏日本から直接大坂へ送られるようになると、海津への御城米は年々減少し、延宝期(1673~81)には、御城米は平均年六万石(15万俵)と急激に減り、貞享期(1684~88)のころになると、年間わずかに一万石(2.5万俵)になり、最盛期の約30分の1になってしまった。

 最盛期の寛文年間(1661~73)、敦賀から海津への上り荷物で、最も多いものは米で、全体の70~80%を占めていた。他には、大豆などの穀物類・魚等の水産物、加賀の木地類、輪島の漆器、菅笠、高岡の銅器・鉄瓶、富山の売薬などであった。
下り荷としては美濃・尾張・近江の陶磁器、三河の生綿、京都・大坂・名古屋の呉服・大物類、美濃・近江の煙草・茶・ミカンなどであった。西廻り航路が発達し、敦賀・小浜への廻米は減少または停止されたが、海津への諸荷物の減少が落ち着いてきた宝永(1707~11)以降の海津は、近江や美濃両国の外港として、貨物の集散地、近江の産物の北国への移送の基地としての役割を果たすこととなった。

 マキノの町の湖岸海津浜の石垣は、元禄14年(1701)に西浜の属する高島郡甲府領の代官となった西与一左衛門が、元禄16年(1703)に幕府領の海津東浜の代官 金丸又左衛門重政と協議し、幕府の許可を得て、湖岸波除石垣を西浜に495.5m、東浜に668m築いたもの。
これによって海津西浜は水害から守られた。この石垣は嵐のたびに何度も改修され今日に至っている。
海津の古い伝統的な町並みは石垣より少し内側に、石垣と平行に通る街道の両側に展開する。その中に地酒の醸造元や、400年以上の伝統をもつ醤油醸造の家などがある。
 海津西浜の街道の中程に海津天神社への参道がある。その参道より南側の街道の両側では切り妻造りで、街道に妻側を向けた妻入りの民家が多いのに、その北側では棟を街道と並行にした平入りの商家が多い。敷地の関係でそうなったと思われるが面白い現象である。妻入り、平入りに関係なく中二階の民家が多い。中二階は真壁造りでなかには出格子をはめた民家もあり、屋根は桟瓦葺である。

琵琶湖と内湖を堀に。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


石庭城  近江国(高島・マキノ)

2014年06月29日 | 平城

 土塁は三方現存している。

お城のデータ

所在地:高島市マキノ町石庭  (旧高島郡マキノ町石庭)  map:http://yahoo.jp/KRk8Jx

現 状:集落

遺 構:土塁

築城期:室町期

築城者:寺居氏

区 分:平城(里城)

訪城日:2014.6.28

 郭内

お城の概要

石庭城は、知内川の支流石庭川が北西方向で東流する石庭集落内に比定される。

土盛りの南面外側にはかつて長方形の沼地があったと伝える。

お城の歴史

田屋(田谷)氏の家臣・寺居貞利の居城であったと伝えるが、その他詳細不明。

石庭草の根会館に、駐車

 石庭草の根会館より、遠望

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

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蛭口館 近江国(高島・マキノ)

2014年06月29日 | 居館

お城のデータ

所在地:高島市マキノ蛭口  (旧高島郡マキノ町蛭口)  map:

現 状:集落・公園・日枝神社

築城期:室町期

築城者:饗庭氏

遺 構:土塁

区 分:居館

訪城日:2014.8.26

お城の概要

蛭口館は、蛭口の北部に推定される。かつて「御邸」と称されたこの地のほとんどは、現在では「区民ふれあい広場」というゲートボール場と化し、敷地内の起伏もほぼ確認できなくなっている。

公園の北と東の藪地は土盛りを伴っていて、城跡の臭いはプンプンする。

道を挟んで公園西側の日吉神社付近は馬場であったようだ。

公園南の消失した土塁

蛭口館西に所在する日吉神社     

日吉神社前に駐車スペース有り、

お城の歴史

当時蛭口は海津西浜の1村に含まれ、『高島郡誌』には蛭口に海津饗庭氏の居館があったとし、『マキノ町誌』の中でも蛭口館が紹介されているが、詳細は不明である。蛭口館西に所在する日吉神社は治暦元年源頼義により再興された

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

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沢村城(饗庭氏館) 近江国(高島・マキノ)

2014年06月29日 | 平城

所在地:高島市マキノ町沢(旧高島郡マキノ町沢)   map:http://yahoo.jp/lMWBwP                                               

区 分:平城

現 況:光明寺

遺 構:土塁、碑                      

築城期:南北朝期

城 主:饗庭氏

光明寺に駐車可能。

訪城日:2014.6.28

お城の概要 

長法寺から200m程西進した右手の光明寺が城跡。

 沢村城(饗庭氏館)は光明寺の一帯。田屋(田谷)氏館である長法寺館から西へ約100m、田屋城(詰め城)の東へ約600m、。

光明寺の本堂裏手には堀と考えられる窪地が残る。

歴 史

 本能寺の変後の天正10年(1582)6月、近江高島郡は丹羽長秀に与えられた。翌年3月に賤ヶ岳の合戦が起こり、羽柴秀吉方の長秀は、柴田軍の南下を阻止するために知内浜城をはじめ、森西城・沢村城・田屋城(詰め城)等を修築したと伝わる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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長法寺館(田屋氏館) 近江国(高島・マキノ)

2014年06月29日 | 居館

 

所在地:高島市マキノ町沢(旧高島郡マキノ町沢)   map:http://yahoo.jp/yFWb1m

現 状:長法寺

区 分:居館」

遺 構:土塁、類似石碑

築城期:室町期

築城者:田屋淡路守

目標地:長法寺

駐車場:長法寺

訪城日:2014.6.28

お城の概要

 今も、境内北東にL字状の土塁が残る。当日は住職さんにお願いして土塁を拝見する。土塁内側は庭園化。

マキノ町沢には2つの城跡。長法寺館(田屋氏)とこの地の西にある沢村城(饗庭氏)がある

長法寺は戦国期の天文4年(1555年)に建立されたのが、江戸時代の寛文3年(1663年)に田屋(田谷)氏の居館跡に本堂が建立されている。

 寺門?館門(四足門)跡の敷石

本堂再建の石碑に領主田谷氏館跡に、この寺が建ったと刻まれています。

歴 史 

長法寺館には、寺伝によると田屋淡路守の居館。田屋氏は、この地森西集落の西側に山城・田屋城を詰城とし、平時は下屋敷に住した。

 天文7年、六角定頼と田屋氏の間に合戦が起こり、田屋氏は当館を棄てて詰め城田屋城に篭り、長法寺館は六角方の手に落ちた。

 田屋氏は、北近江で勢力を伸ばしてした浅井氏と縁戚にあたり、天文以後次第に浅井氏被官と化し、浅井長政の高島領有に大きく尽力した。

田屋明政は浅井亮政の娘婿であったが、田屋氏の消息は天正3年(1575年)大處神社棟札銘の田屋淡路守重頼を最後に途絶えている。

 本能寺の変後の天正10年(1582)6月、近江高島郡は丹羽長秀に与えられた。翌年3月に賤ヶ岳の合戦が起こり、羽柴秀吉方の長秀は、柴田軍の南下を阻止するために知内浜城をはじめ、森西城・沢村城・田屋城(詰め城)等を修築したと伝わる。 

長法寺の裏に、土塁が残る。

   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


ダンダ坊遺跡 近江国(大津・志賀)

2014年06月29日 | 城郭寺院

比良連峰に静かに眠る、謎多き城郭寺院跡

 

お城のデータ

所在地:大津市北比良 出会橋map:http://yahoo.jp/MWI1fb

現 状:雑木林・寺坊址

築城期:平安期

築城者:延暦寺

城 域:150m×550m(比良山系最大)

遺 構:石垣、坊址、庭園

廃 城:元亀年間

目 標:比良山登り口・出会橋・バス停イン谷口

駐車場:あり

訪城日:2014.6.28 

お城の概要

 比良山中に眠る謎の城郭。山岳寺院の一部が城塞化したとみられる。石垣による虎口で守られた館跡には、庭園の遺構が良好に残る。
ダンダ坊遺跡は、比良川が支流を集める出会橋の北側に、幅約150m、奥行約550mの範囲で広がる、比良山中最大の寺院遺構。

遺跡は大きく4つに分れ、寺院部は石垣で区画された広い伽藍の中に、山門跡・本坊跡・他の跡などが明瞭に残っている。また館跡は。番、谷奥にあり、人目にはますがたこぐち枡形虎口を配し、寺院とは異なった景観を見せている。さらに山中の寺院には珍しい庭園の遺構が、ほぽ完全に残り、この遺跡
の謎を一層、深めている。

歴  史

この遺跡の歴史的な経緯はいまだ不明だが、平安時代に始まり、天台僧の修行の場として、今も石垣で区画された伽藍が残っています。三尊石を置いた庭園もあり、元亀年間に近江で繰り広げられた信長と連合軍との対抗勢力との抗争「志賀の陣」で、延暦寺と共に破壊され忘れ去られた寺院。

・・・・・・・・・・・・・・・・信長公記   三巻・・・・・・・・・・・・・・・・・・

志賀の陣  志賀御陣の事

 9月16日、越前朝倉氏と浅井長政の連合軍約三万が近江を南下し、坂本口へ押し寄せてきた。この報に接した宇佐山城将の森可成は軍勢を率いて宇佐山の坂を駆け下り、坂本の町はずれで敵と接触した。双方足軽を出しての小戦闘になったが、森勢は敵首少々を得て勝利を収めた。
 しかし大勢は動かず、19日になって陣立てを終えた朝倉・浅井勢は二手に分かれて再び坂本口へ殺到した。森勢は町を破らせまいとして坂本の町口で敵を支えたが、二手より攻め寄せた敵の大軍の挟撃を受けて重囲に陥ってしまった。それでも森勢は勇を奮って戦い、敵味方火花を散らしての激戦となった。しかし敵の猛勢の前に森勢もついに崩れ立ち、森可成・織田九郎信治・青地茂綱・尾藤源内・尾藤又八以下多くの将領が討死した。

 このとき森勢の中に、尾張国守山の住人で道家清十郎・助十郎という名の兄弟がいた。先年武田勢が東美濃高野口③へ侵入した際、森可成は肥田玄蕃とともに先陣に立って防戦につとめたが、この時の戦闘で兄弟は二人で三つの敵首を挙げた。これを聞いた信長公は大いに喜び、兄弟が指していた白の指物を召し寄せ、それへ「天下一の勇士なり」と直筆して与えた。侍としてこれに過ぎた栄誉はなく、兄弟は名誉の仁とうらやまれた。今度の戦でも兄弟はその指物を背に立てて戦場に立ち、森可成とともに勇戦して討死を遂げた。

 森勢を打ち砕いた浅井・朝倉勢は余勢を駆って宇佐山まで攻め上り、出城へ火を放ったが、城内に残っていた武藤五郎右衛門・肥田彦左衛門の奮闘により城はなんとか持ちこたえた。しかし翌20日、敵は大津に出て馬場・松本へ放火し、21日には逢坂を越えて醍醐・山科を焼き払った。

 敵軍は、すでに都の目と鼻の先までせまっていた。22日、その事実は摂津国中島の陣所へもたらされた。
 注進を聞いた信長公は、敵を都へ入れては元も子もなしと考え、23日和田惟政・柴田勝家の両人を殿に残して野田・福島の陣所を引き払った。そしてみずからは中島に出て江口の渡し④へ向かった。

 江口川は宇治川・淀川の支流で、水量は多く、水勢もすさまじい有様で、昔から舟で渡るのが普通であった。この地まで猛烈な勢いで行軍してきた織田勢であったが、ここにはすでに一揆が蜂起しており、渡河のための船は彼らによってことごとく隠されてしまっていた。その上で一揆勢は、竹槍を手に対岸の大坂堤添いへ稲麻竹葦のごとくむらがり、対岸の織田勢へ向かって口々に嬌声を投げかけてきた。
 ここで信長公は、みずから馬を駆けまわして川の流れを調べた。そして河中へざぶりと馬を打ち入れると、軍勢へ向かい「渡るべし」と下知した。
 命令一下、織田勢は一斉に川へ入った。すると水深は思いのほか浅く、雑兵たちも徒歩でらくらくと渡河することができた。信長公は同日のうちに公方様に供奉して帰洛を果たした。ところがこの翌日から江口の渡しは急に水深が増し、徒歩での渡河は困難になってしまった。江口近辺の者達は、ふしぎなることよと皆ささやき合った。

 9月24日、信長公は上京本能寺を立ち、逢坂を越えて越前衆の攻撃に向かった。しかし下坂本に布陣していた越前勢は、信長公の旗印を見るやたちまち敗軍の体を見せて比叡山へ逃げ上がってしまった。山へ上がった越前勢は、蜂が峰・青山・局笠山⑤に陣を取った。
 このとき信長公は延暦寺の僧十人ばかりを呼び寄せ、「信長に味方するならば、分国中の山門領を元通りに還付する」と金打⑥して約束し、かさねて「出家の道理により片方への贔屓なりがたし、と申すならば、せめて敵味方とも見除せよ」といって説得し、その旨を稲葉一鉄に申し付けて朱印状にしたためさせた。その上で信長公は、「このこと違背するならば、根本中堂・三王二十一社を始め諸堂ことごとく焼き払う」と宣告した。しかし山門の僧衆はこの勧告を聞き入れず、情勢を見て浅井・朝倉に味方し、魚・鳥・女人を山に上げて悪逆をほしいままにした。

 信長公は下坂本に陣を取り、25日になって叡山を囲んだ。
織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して平手監物・長谷川丹後守・山田三左衛門・不破光治・丸毛長照・浅井新八・丹羽源六が入り、穴太⑦にも砦が築かれて簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・明智光秀・苗木久兵衛・村井貞勝・佐久間信盛ら十六将が入れ置かれた。
 田中には柴田勝家・氏家ト全・安藤守就・稲葉一鉄が布陣し、唐崎⑨の砦にも佐治八郎・津田太郎左衛門が入った。そして信長公自身は志賀の宇佐山城に陣を取った。
 叡山西麓の将軍地蔵山の古城跡には織田信広・三好康長・香西越後守に公方衆を加えた兵二千余りが布陣した。また八瀬・大原口⑪には山本対馬守と高野蓮養坊が足がかりの陣地を築き、地理に詳しい両人はここから夜中山上に忍び入っては谷々へ放火してまわり、寺側を大いに悩ませた。

 10月20日、信長公は朝倉勢へ菅谷長頼を使者に遣わし、「いらざる時を費やすをやめ、一戦をもって勝敗を決さん。日時を定めて出で候え」と申し述べさせた。しかし朝倉勢からの返答はなかった。そののち朝倉勢は交戦を中止して講和を申し入れてきたが、信長公は是が非にも決戦して鬱憤を散らすべしとして、これを蹴った。

 信長公が叡山に釘付けとなっている間、三好三人衆は野田・福島の砦を補修し、諸牢人を集めて河内・摂津の各地で示威行動をとった。しかし高屋城の畠山殿・若江城の三好義継・交野の安見右近および伊丹・塩河・茨木・高槻の各城がいずれも堅固に構え、和田惟政率いる畿内衆も各地に陣所を構えて守備を固めていたため、京方面へ進むことはできなかった。

 江南では六角承禎親子がふたたび起こり、甲賀口の三雲氏居城菩提寺城⑬まで寄せてきたが、人数が少なく戦の体にならなかった。また江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路を閉ざそうとしたが、百姓のことゆえ人数は多くとも脅威にはならなかった。
 木下藤吉郎と丹羽長秀の両名は、江南の各地を転戦してこれらの騒擾を鎮めた。そして小谷城付城の横山城と佐和山城付砦の百々屋敷に十分な守備兵を残し、みずからは志賀へ参陣すべく西上した。途中の建部⑭には一揆勢が砦を構え、近隣の箕作山・観音寺山と連携して通路を塞いでいたが、両人は一戦してこれを蹴散らし、難なくまかり通った。
 木下・丹羽勢は志賀へ到着し、瀬田へ入った。これを志賀の城から遠望した信長公は、瀬田城の山岡景隆が六角勢を引き入れて謀叛したものかと疑ったが、飛脚の報によって藤吉郎・五郎左衛門が参陣したものとわかり、不審を解いて大いに機嫌を良くした。これにより在陣諸兵の士気も上がった。11月16日、信長公は丹羽長秀に命じて鉄綱をもって瀬田に舟橋を架けさせ、村井新四郎・埴原新右衛門に警固させて人馬の往還を助けた。

 このころ尾張では、信長公の御舎弟彦七信興殿が小木江に城を構えて居城としていた。そこへ信長公が志賀で手詰まりとなっている様子を見た一揆勢が長島で蜂起し、小木江にも押し寄せてきた。一揆勢の攻撃は日を追って激しくなり、21日ついに城内へも突入してきた。これを見た信興殿は、一揆勢の手にかかって果てては無念と思い、天守櫓へのぼって腹を召された。是非なき次第であった。

 11月22日、六角承禎との和睦が成立して三雲・三上氏が志賀へ出仕し、上下ともひとまず胸をなでおろした。また25日には堅田⑯の猪飼野甚介・馬場孫次郎・居初又次郎の三名が織田方へ内通を申し合わせ、坂井政尚・安藤右衛門・桑原平兵衛へその旨を打診してきた。坂井らは信長公の許しを得て猪飼野らから人質を受取り、夜のうちに人数千ばかりを率いて堅田へ入った。しかし堅田が織田勢の手に渡ることを嫌った越前勢はまもなくして大軍をもって堅田へ返し、多勢にものを言わせて諸口から攻め寄せてきた。
 重囲の中にあって織田勢は奮戦し、前波藤右衛門や義景右筆の中村木工丞らを討ち取る活躍を見せた。しかし敵の大軍の前にあるいは負傷し、あるいは討死して次第にその数を減じ、ついに敗軍した。乱軍の中坂井政尚と浦野源八親子は一騎当千の働きを見せ、比類なき高名をあげたのち見事討死を遂げた。

 季節は、すでに冬にさしかかっていた。
寒天と降雪で北国への通路は閉ざされようとしていた。そのため朝倉勢は公方様へ言上し、織田勢との休戦を申し入れてきた。信長公ははじめ休戦に応じようとしなかったが、30日に三井寺に入った公方様から重ねて休戦の上意があったため、信長公もこれを無視しがたくついに休戦に同意した⑰。

 12月13日、織田と浅井・朝倉との間に講和が成立し、織田勢は湖水を越えて瀬田まで退き、なおかつ浅井・朝倉勢が高島郡に到着するまで人質を出して行路の安全を保証することが決まった。翌14日、信長公はこの約定に従い瀬田の山岡景隆居城まで軍勢を退かせた。これを見た敵勢も15日早朝から叡山を降り、北国へ引き上げていった。
しかしながら、この戦はまことに前代未聞の栄誉ある一戦であった。信長公は大雪の中を行軍して16日に佐和山山麓の磯の郷へ宿陣し、翌12月17日久方ぶりに岐阜へ帰陣した。

                     

駐車場・・・元比良スキー場へ 期間限定バス停

 道案内

161号(湖西)バイパス終点を左に折れ比良山中に入ると、出会橋があります。さらに川沿いに進むと昔の比良リフトの乗り場となり、この一帯がダンダ坊です。数多くの石垣が残り「比良七百坊」を彷彿させます。
 また、ここからは比良山への登山口にあたり、落差81mある神爾滝を見に行っても良いかもしれません。
 そして、帰りには天然温泉「比良とぴあ」によって、疲れをとってリラックスするのもよいかも。

ダンダ坊の坂落とし 織田勢が攻め寄せる中、ダンダ坊に詰めていた僧兵たちは敵陣めがけて一気にこの坂を駆け下ったのであろう坂。
 駆け降りる僧兵たちの目には、琵琶湖最大の島「沖島」が映っていたでしょう。ここから見える景色は、沖島が向かって右側を頭と見立て、仏陀が横になる涅槃の姿を映しているという。沖島に仏の姿を見立てて、その御加護を信じ敵陣へ突進していった僧兵たちが駆け降りた坂、これが「ダンダ坊の落とし」です。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、大津の城郭

 

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