城郭探訪

yamaziro

醒井城 近江国(米原)

2014年06月06日 | 平山城

 

所在地: 米原市醒井町 (旧坂田郡米原町醒井)   map:http://yahoo.jp/-4EOxe

現 状:山林 、主郭(墓地)

区 分:平山城

遺 構:土塁、郭、石垣、(醒井城木碑)

築城期:南北朝期

築城者:土肥氏

城 主:土肥玄蕃亮・醒井三郎・醒井権藤頭

目 標:地蔵川 居醒橋

訪城日:2014.6.4

  醒井城は、旧中山道醒井集落のほぼ中央付近にあった。醒ヶ井は宿場町の町並みと、中山道沿いを流れる清流地蔵川に生息する「梅花藻(バイカモ)」が有名であるが、その中心地付近、南側の小さな山付近が城跡だとされている。

醒井集落は、南背後に名神が走り、城山は名神開通に伴い南方の山系から分断さている。

 山頂に10m×10mの土塁に囲まれた主郭?(現在は墓地)、東側は削平地が3~4段、北側は地蔵川を前堀に50m~30m程宅地に開削され砂防壁・ネット~その上部分に石積み(石垣?)を見る。

南側は高速道路で分断、西側は(高速道路沿いに)登城道(墓地への参道)となり、途中に土塁や小規模の削平地をみる

公民館前に建つ簡易案内板に確かに「醒井城址」と記載されていた。 

  

歴 史

『江州南北諸士帳』に、醒ヶ井 住 佐々木随兵平氏 土肥玄蕃亮とあり。(醒井城に関して、文献等の資料は少ない。)

『淡海国木間攫』に、醒ヶ井村 「建武兵革ノ此醒井三郎トイヘル武士見ヘタリ、ニテ自殺ノ内ニアリ、醒井権藤頭京極浅井家ノ記ニ出ル、是等ハ此辺住居ノ武士ナリ」とあり。

 鎌倉幕府成立頃から頼朝の家臣として活躍した土肥氏は、箕浦庄の地頭として下向した。土肥氏はその後、番場・多和田・醒井をそれぞれ分派に与え、箕浦庄の三土肥と称された。

 番場に居を構えた土肥氏は、その後もこの地で活躍して室町時代に鎌刃城を築いたとされるが、それ以前に居城としたのが番場城と殿屋敷であった。

 

 ここから、登城しましたが危険です。しかし、石積や石垣は観られました!    石垣       主郭下の石垣醒井城の木碑 主郭の土塁 主郭の東側下の削平地(20m×15m) 主郭の土塁 南側の高速道路 醒井城の木碑  城道(参道)土塁 削平地             地蔵橋西、約50m、民家の間を入る(標識・案内板なし) 

 

 地蔵川沿いの無料駐車場利用。

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、『江州南北諸士帳』、『淡海国木間攫』

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


番場城・殿屋敷 近江国(米原・番場)

2014年06月06日 | 平山城


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殿屋敷(手前)と番場城 

お城のデータ

所在地:米原市番場殿屋敷  (旧坂田郡米原町番場 殿屋敷)

現 状:山林

遺 構:曲郭・土塁・堀切・櫓台

区 分:平山城

標 高:200m   比高差:約100m

築城期:南北朝期

築城者:土肥氏

目 標:西番場バス停

訪城日:2014.6.4

 

高圧鉄塔が建つ櫓台

  駐車可能。 

お城の概要

番場城は、中山道番場宿の集落背後、頂部に鎌刃城が所在する山塊から突出した舌状尾根先端部に築かれている。
登城ルート

西番場地区の2ヶ所の鎌刃城登城道が番場城尾根の東西直下を走っていて、どちらからでも頂部に建つ送電鉄塔を目指せば辿り着く。目印は名神道ガード「彦根42」と「彦根43」の間である。

 自動代替テキストはありません。

 縄張は三方を土塁がめぐる南北約35mの主郭を中心に、先端に腰郭、山側に櫓台を備える。櫓台の背後は山頂方向の尾根筋を堀切にて分断している。堀切の外側は、約20mの自然地形を経て、さらに薄い堀切が確認できる。
全体的に風化が激しく、土塁は薄く、櫓台は鉄塔建設により改変され不明瞭な部分が多い。尾根先は名神道開通により削り取られているので、本来の大手道は消滅したと思われる。

また西麓には「今福寺遺跡」とされる遺構が存在する。背後を水堀で遮断し、ほぼ中央の段築部には石積みが見られる。この遺跡は番場城遺構の一部のように思えるため記載しておく。
 尚、番場城の尾根先には殿屋敷と称される鎌刃城主堀氏の屋敷と伝承される地があるが、立地からみて番場城との詰城と居館の関係とみるのが普通である。

お城の歴史

『江州南北諸士帳』に、「番場 住 佐々木随兵鎌倉平氏 土肥三郎、同 同男左京進」とあり。(番場城に関して、文献等の資料は少ない。)

 鎌倉幕府成立頃から頼朝の家臣として活躍した土肥氏は、箕浦庄の地頭として下向した。土肥氏はその後、番場・多和田・醒井をそれぞれ分派に与え、箕浦庄の三土肥と称された。

 番場に居を構えた土肥氏は、その後もこの地で活躍して室町時代に鎌刃城を築いたとされるが、それ以前に居城としたのが番場城と殿屋敷であった。

  西麓には「今福寺遺跡」とされる遺構が存在する。背後を水堀で遮断し、ほぼ中央の段築部には石積みが見られる。この遺跡は番場城遺構の一部のように思えるため記載しておく。   竪堀に石積発見!   櫓台の西に、畝状竪堀   

鉄塔管理道    南の堀切 櫓台から中仙道を   主郭                   堀氏の墓碑カ?   祠は石仏の屋根でした 

水堀

尚、番場城の尾根先には殿屋敷と称される鎌刃城主堀氏の屋敷と伝承される地があるが、立地からみて番場城との詰城と居館の関係とみるのが普通である。

 

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殿屋敷と番場城(遠景)

発掘調査時の写真

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『江州南北諸士帳』

本日も訪問、ありがとうございました。  


上野館 近江国(米原)

2014年06月06日 | 居館

   

所在地:米原市一色   (旧坂田郡米原町一色)    map:http://yahoo.jp/mC8_Ts

現 状:畑地・空地

区 分:居館

築城者:

築城期:

遺 構:土塁、石材、

城 主:

目 標:等林寺

駐車場:等倫寺前の一里塚横に4~5台

訪城日:2014.6.4

 

上野館は名神高速道北沿いの旧中山道と国道21線の間の狭い一画に所在する字上野付近にあったとされる。

滋賀県中世城郭分布調査の資料によると「等倫寺の東方集落と畑地」だとされる。

 名神南側には山がせまり、また国道から見る集落は高台になっているこの地は、山麓の丘陵地を利用した見晴らしの良い立地である。

歴 史

詳細不明

「等倫寺の東方集落と畑地」

           

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


門根城 近江国(米原)

2014年06月06日 | 居城

 

別 名;門根館

所在地 : 坂田郡米原町三吉    map:http://yahoo.jp/Q_fcXK

築城年 : 不詳

築城者:堀氏

形  式 : 平城(居舘)

遺  構 : 土塁、郭

目 標:八幡神社

訪城日 :2014.6.4

 八幡神社のある丘状の小山が城館の大土居で、その東側を流下する河川により東と西に区分され、西側が堀氏の居館で東側が重臣・樋口の居館と考えられている。

 この丘を土塁は規模の大きい城館の遺構である。

歴 史

『淡海国木間攫』に、門根村 「此地ニ門根三郎左衛門尉住ス、浅井家ニテ軍功ヲ顕シ人ナリ、天正元年小谷城ニテ大字大和守、山脇出羽守秀俊等ト一所二討シス、その後孫書記ヒハ不見」とあり

根は、鎌刃城主・堀氏の本貫地とされ、門根の城館について、『浅井三代記』に永正15年(1518)正月9日の事として、堀能登守頼定は樋口をかたらひ門根村の城に500余騎にて立て籠もったとある。また、改訂坂田郡誌に天文元年(1532)の江北の乱(浅見・磯野VS浅井亮政らの対立)での浅見・磯野氏方への堀・樋口氏の加担の記述で、「門根村の城とは当城舘であろう。勿論近隣の山上にある地頭山城を含んでのこと」云々とある

                                        

 

 八幡神社

           

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、浅井三代記、『淡海国木間攫』=(彦根藩の御鷹餌割奉行塩野義陣の編集地誌)

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