三上城出城と北側の水道施設
所在地:野洲市小篠原 map:http://yahoo.jp/d6Uh9g
現 状:山林
築城期:室町期(永享年間 1429~40)
築城者:三上政実
初城主:三上氏
区 分:山城
遺 構:石垣、石列、竪堀、土塁
目 標:東側から野洲水道タンク(茶色)、山麓の天理教琵千代文教会、
駐車場:登り口に墓地(車を駐車5台可)
訪城日:2014.6.14
お城の概要
三上城北西部の山腹(妙光寺山の東側)に三上出城があります。主城より、街道に近く監視用であった。妙光寺山腹の水道タンクの南東山中。
三上城出城は越前塚古墳の東側、妙光寺山の北の山腹に位置しており、曲輪,竪堀等の遺構は確認できるが、曲輪は削平状態が明瞭・完全で、堅堀などの遺構も石列、土塁、竪堀も明瞭に残存、城郭部分が綺麗に下草整備されている。
中仙道の東から監視のため築城・役割に。また戦いに一時的に使用されたか。
歴 史
永享年間(1429~40年)に三上政実が築城したとされます、その後三上氏の代々の居城となり、観音寺城の佐々木六角氏に従いました。
(三上氏(みかみし)は日本の氏族のひとつで近江国野洲郡三上郷を本拠地とする一族とされる。)
中世の武家。近江国野洲郡三上を本拠とした。代々,近江の守護、戦国大名六角氏の有力家臣で,南北朝期には玄妙が奉行人として活躍した。室町期後半から戦国期の永正年間(1504‐21)ごろまで六角氏領国は守護代伊庭(いば)氏が支えていたが、伊庭氏が二度の反乱で滅びると、六角氏は奉行人体制を確立し、領国支配は奉行人を中心に行われた。越後守頼安は明応~享禄年間(1492‐1532)に多数の奉行人連署奉書にその名が見え、最有力の重臣の一人であった。
吾妻鏡
吾妻鏡 文治元年(西暦1185年)10月9日の条には、源頼朝が命じるも鎌倉御家人の誰もが固辞した源義経討伐令を受けた土佐昌俊の討伐軍に列した弟三上家季の名が見える。三上家季は近江の武士と推定されている。
三上城出城は三上氏の築城とされ、三上城の出城と考えられるが、詳細不明。
野洲水道タンクの鉄扉は施錠。
鉄扉の東側の獣害フェンスを乗り越え、登城
山上目掛けて直登
城域は綺麗に下草を刈取りされている
頂部の石列・・・郭跡
北側は中仙道だが、雑木で隙間から国道8号線見える。
東側は、城道で自然石と石列を組み合し、また竪堀の明瞭である
駐車は、ゲート周辺、墓地駐車場に。
墓地正面に妙高山(三上山城=詰城)
墓地の西側が城道か
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城
本日の訪問、ありがとうございました。感謝!!