城郭探訪

yamaziro

三上城-出城 近江国(野洲)

2014年06月13日 | 平山城

 三上城出城と北側の水道施設

所在地:野洲市小篠原   map:http://yahoo.jp/d6Uh9g

現 状:山林

築城期:室町期(永享年間 1429~40)

築城者:三上政実

初城主:三上氏

区 分:山城

遺 構:石垣、石列、竪堀、土塁

目 標:東側から野洲水道タンク(茶色)、山麓の天理教琵千代文教会、

駐車場:登り口に墓地(車を駐車5台可)

訪城日:2014.6.14

お城の概要

三上城北西部の山腹(妙光寺山の東側)に三上出城があります。主城より、街道に近く監視用であった。妙光寺山腹の水道タンクの南東山中。

 三上城出城は越前塚古墳の東側、妙光寺山の北の山腹に位置しており、曲輪,竪堀等の遺構は確認できるが、曲輪は削平状態が明瞭・完全で、堅堀などの遺構も石列、土塁、竪堀も明瞭に残存、城郭部分が綺麗に下草整備されている。

中仙道の東から監視のため築城・役割に。また戦いに一時的に使用されたか。

歴 史

永享年間(1429~40年)に三上政実が築城したとされます、その後三上氏の代々の居城となり、観音寺城の佐々木六角氏に従いました。

(三上氏(みかみし)は日本の氏族のひとつで近江国野洲郡三上郷を本拠地とする一族とされる。)

中世の武家。近江国野洲郡三上を本拠とした。代々,近江の守護、戦国大名六角氏の有力家臣で,南北朝期には玄妙が奉行人として活躍した。室町期後半から戦国期の永正年間(1504‐21)ごろまで六角氏領国は守護代伊庭(いば)氏が支えていたが、伊庭氏が二度の反乱で滅びると、六角氏は奉行人体制を確立し、領国支配は奉行人を中心に行われた。越後守頼安は明応~享禄年間(1492‐1532)に多数の奉行人連署奉書にその名が見え、最有力の重臣の一人であった。

 

吾妻鏡

 吾妻鏡 文治元年(西暦1185年)10月9日の条には、源頼朝が命じるも鎌倉御家人の誰もが固辞した源義経討伐令を受けた土佐昌俊の討伐軍に列した弟三上家季の名が見える。三上家季は近江の武士と推定されている

三上城出城は三上氏の築城とされ、三上城の出城と考えられるが、詳細不明。

野洲水道タンクの鉄扉は施錠。鉄扉の東側の獣害フェンスを乗り越え、登城山上目掛けて直登城域は綺麗に下草を刈取りされている頂部の石列・・・郭跡

北側は中仙道だが、雑木で隙間から国道8号線見える。

東側は、城道で自然石と石列を組み合し、また竪堀の明瞭である

駐車は、ゲート周辺、墓地駐車場に。

墓地正面に妙高山(三上山城=詰城)

墓地の西側が城道か

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

      本日の訪問、ありがとうございました。感謝!!


守山城(守山陣所) 近江国(守山)

2014年06月13日 | 陣屋

江戸期の中山道守山宿、かつてはこのお城の城下町守山。

城郭の概要

 守山城は砦を持つ陣屋と考えられ、現在の大光寺と守山幼稚園から金森川にかけて、昭和30年代(1955)頃まで、土塁や竹藪、深い掘割がもこっていたが、今は不詳。(守山市志-地理論より)

所在地:滋賀県守山市守山1丁目 map:http://yahoo.jp/iHgjnZ

現 状:大光寺・守善寺・守山幼稚園・集落

遺 構:大光寺の石垣、内堀・外堀(用水路)

区 分:平城

城 域:5500坪

築城者:宇野一元

築城期:応永8年(1401)

目 標:大光寺

城 主:佐々木の一族種村道成、最後城主稲葉一鉄

訪城日:2014.6.14

 

 守山城は、現在の大光寺と守山幼稚園から金森川にかけての一帯に築かれていた。 城の遺構は何も残っていないが、城域は周囲より一段高くなっていて、昭和の中頃まで土塁跡や堀跡が残っていたとか。

  守山城は、現在の守山1丁目の大光寺・守膳寺・守山幼稚園とその東方集落一帯にあったとされている。ここ一帯は東方から流れてきた金森川が、大きく南方に弧を描き守膳寺西方へ抜け、城域の北側以外三方を囲むように流れている。
昭和40年以前までは付近に土塁や掘割が残っていたというが、現在は市街地化し遺構は確認できなかった。

 守山城という城名は全国各所にあり、尾張・越中・陸奥・伊豆・肥前・肥後などにも確認できる。
    (余談だが、大光寺は第75代首相宇野宗佑氏の墓がある)

歴 史

守山城は、応永8年(1401)に宇野一元によって築かれた。宇野氏は承久の乱(1221)以降栗太郡関津城を本拠として草津・守山地域に勢力を誇っていた。

 やがて六角氏の台頭により、一族の主流で神崎郡種村城主種村氏が城主となっていたが、永禄11年(1568)種村道成の時、織田信長勢の木下藤吉郎・池田信輝によって攻められ落城した。

 織田信長は近江平定後、京と岐阜との通路確保のため守山城を修築したと考えられる陣所を築き、美濃曽根城主稲葉一鉄を守将とした。この時、勝部城に稲葉貞通、浮気城に佐久間信盛が居城したという。 

 鐘楼の下石垣は遺構! 門前の石垣は、算木積みで整然と積んであり笑い積が三ヶ所も、見事でした。

大光寺・・・西側より

大光寺は第75代内閣総理大臣の宇野宗佑元首相の墓所にもなっている寺院。

守山城ですが、日本城郭大系でも軽くしか触れられておらず、天文年間(1532~1555年)に近江で勢力を張っていた佐々木六角氏が築城したとされ、永禄10(1567)年頃に稲葉右京貞通が守備をしていた頃に滅んだとされています。

時代的に、恐らく翌年の織田信長の上洛の際に攻撃されたものだと思いますが、この稲葉右京貞通は信長に仕え本能寺まで一緒にいたとされる人物のはずですが、いかがなんでしょうか・・・

恐らくは信長の命で、貞通が守山城を攻撃したとの誤記、もしくは説明不足だとは思いますが。

元亀元(1570)年に信長が本願寺衆徒と対立すると、勝部城、浮気(ふけ)城とともに信長が奉行を配置したと「金森日記抜」に記されているとのことです。

  現在は城の遺構は残されておらず寺院内も軽く見回しましたが、石碑、解説板はおろか、由緒書きのようなものも見つからず、本当に城跡だったのか。

 この守山駅西側は近代的に開発も進み、地形も変わっているが、現在は完全な平地。地図などを見れば水路なども多いので、往時は防御で強化されていた。

周辺に城跡が多い一帯ですので、それらと連携しあうことで軍事的な治安を維持していた。

中堀

中堀

中仙道道標

   

外堀