県道127号線、小佐治公民館の路地を北に入る。右手に常楽寺を見て十字路も北進すると標識が見える。



お城のデータ
所在地:甲賀市甲賀町小佐治城殿 map:http://yahoo.jp/GlQ5FF
現 状:森林・竹林・
遺 構:曲輪・土塁・水堀・空堀・説明板
区 分:山城
築城者:平業国
築城期:南北朝期(泰平5年(1062))
城 主:佐治氏
標 高:250m 比高差:30m
目標地:常楽院・第二鹿深の家
市指定史跡
訪城日:2014.6.17
中腹の常楽寺を奥に進む
主郭跡の大半は牧場の放牧場となっている。
桝形池(水堀)に『佐治城跡』の説明板を奥に進む
牧場の中央、道路沿いに、更に進み、池の手前をV字に左折
・・・三の丸は、この上
お城の概要
城は愛宕山の山頂にあり、道路沿いに「桝形池」と呼ばれる堀跡が残り、山頂には祠が奉られている。
日本城郭体系では本丸付近は畑として開墾され、余り遺構が残っていないような記述がなされている。
確かに本丸付近は「桝形池」および愛宕山付近に堀跡が残されている程度で、その西側は牧場となっている。
西側には土塁や堀切があり、二の丸、三の丸、に相当するような遺構が明確に残る。
一番西側の堀切には土橋が架かっている。
愛宕山の南側は、竹林で削平地・土塁が残る、城の遺構
歴 史
康平5年(1063年)平業国によって築かれたと云われる。 康平5年(1063年)平業国が伊豆国より佐治郷に移り佐治城を築いて佐治氏を名乗った。南北朝には某氏・国氏が武功を上げ、長亨の乱(1487年)では河内守が活躍しました。
建武4年・延元2年(1337年)足利尊氏の命によって、小佐治右衛門三郎は守親親王を攻めるために出兵して感状を受けた。
永禄11年(1568年)六角氏が滅亡後、佐治為次は織田信長より安堵され、元亀2年(1571年)に一万四千石を領した。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて羽柴秀吉は甲賀武士を七番備えに配したが、徳川家康からの内応を求める書状に秀吉が怒り、翌年根来寺攻めに置いて紀伊川治水の命を受ける。更に領地没収の命が下されると一族は佐治城に籠城して滅亡した。 <現地案内板より>
佐治氏は甲賀郡・佐治郷から発祥し、佐治城を本拠として中世の近江を生きた豪族である。
甲賀は近江国甲賀郡の地をいい、伊賀と並んで忍者のことが思われる。戦国時代の甲賀には、甲賀五十三家と称される大小の武士団が割拠していた。そのなかでも佐治氏は、伴一族と並んで古い歴史をもつ武士であった。
佐治氏の出自を探ると、平安時代末期の康平五年(1062)、平維時の子業国が佐治郷に住して小佐治を名乗ったことに始まるという。その伝を信じれば、平氏の分かれということになる。
業国は小佐治、神保、隠岐、伊佐野、平野の佐治郷五ケ村を領して佐治城を築いたと伝えられる。以後、佐治氏は佐治郷にあって激動の中世を生きたのである。
廃車置き場の向かい入口
いきなり井戸?武者隠し
車駐車スペース(ここからも、入城出来ます)
佐治城遠望(三の丸・二の丸・主郭)・・・佐山小学校より
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!