お城のデータ
所在地:東近江市今代町 (八日市市今代町) map:http://yahoo.jp/mzUoBU
区 分:居館
遺 構:川石多数!末裔は安村家19個を数える。
現 状:集落
築城者:安村盛清
築城期:
目標地:今代バス停・今代会館
訪城日::2014.6.23
お城の概要
今田居の地名に、「浄土ノ屋敷」「下屋敷」「堀前」の名が残る
末裔か、表札に「安村」家19を数える。
愛知川中流左岸の集落で、集落内に愛知川の川石が多数、地割石、敷石・台石(川の氾濫時の流石カ)と多用。集落内は狭く迷路のようで。
愛知川の堤防と旧河川敷を開墾・水田化、さらに500m左岸に5mの段差、丘上を八風街道が通り、また千種街道の起点も存在する。
末裔は表札は「安村」、集落に19家
お城の歴史
長寿院の由緒 滋賀県東近江市今代町374
開基:承応年間(1652-1654)足利家家来志賀郡青山城城主安村備中守盛資の曾孫盛仙
神埼郡志由緒記によると、足利家家来安村備中守盛資は志賀郡青山城の城主で長寿院福王寺を建立、薬師佛を安置し庇護したが孫盛清は天文の役(天文8年-1539)に敗れ、青山城を去り采地御園郷今代に移住した。その後盛清の曾孫に当たる安村備中守の代の承応年中頃(1652-1655)、この地に一宇を建立し正覚山長寿院と称した。
以来歴代の住職が守護し現代の住職で16代目である。幾度となく災禍にあいながらも、ご本尊の薬師如来像は災火をまぬがれ秘仏として現存されている。御本尊は木造の薬師如来座像で鎌倉時代の造りである。
伝え聞くところによると、本堂は文久3年(1863)全焼し仮本堂として住宅を移築、長年風雨を凌いできたが、16代坪内智依住職の発願により新築される。上棟平成2年5月24日、落慶法要平成3年6月2日。
新しい本堂に安置された仏像は、鎌倉時代からの時代の変遷を見、その時々の深き信仰心のもと現在に至っている。
『神崎郡志』は、「安村盛清邸址 御薗村大字今田居にあり、面積一段九畝二十八歩、天文の比、志賀青山城主安村盛清が戦に敗れ、所領なる此地に潜居したとういふ。」としている。
安村管左衛門
安村氏は江戸時代に入り氏を志賀と改めた。系譜よると甲斐源氏で新羅三朗義光の裔(すえ)である。安村備中守盛資足利氏に仕へ、志賀郡青山城主となり、他地と御薗郷とに采地を有し、応仁二年十月歿した。玄孫城ノ助盛清、御薗郷今田居に移住し天正五年正月歿し、長子管左衛門盛繁を襲うた。即ち贇済盛政の祖父に當る人で、織田氏の安土時代に出仕いたやうで、天正五年の文書で傳はつてある。(御薗志賀氏文書)
安村忠次郎
安村忠次郎、安村籐十郎と如何なる続柄か、系譜にも名が見えぬ。慶長5年の関ヶ原戦に當り長束正家に属して伊勢津城攻撃に参加し藤十郎は討死した。この時正家は感犹に・・・云々、(御薗志賀氏文書)
津城は冨田信高の居城で関ヶ原開戦以前八月甘三から、長束政家、毛利秀元等が包囲し甘六日、終に略取したが、九月十五日関ヶ原決戦で西軍は潰え、中村正家は身を脱し、居城水口に逃げ帰り、十九日桜谷で自害した。
集落内に墓地・?
バス停「今代」
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『神崎郡志』、長寿院の由緒
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!