壊れかけの移築門までは訪城者の歩いた道が。(門前に自転車・リヤカーが)
お城の概要
所在地:守山市服部町 map:http://yahoo.jp/g6gCtP
区 分:陣屋
現 状:空家敷、東側は竹林
遺 構:土塁、館跡、堀跡、移築門
築城期:江戸期【寛永12年(1635)】
築城者:上田重秀
城 主:上田氏
目標地:法泉寺、守山市埋蔵物センターの南約500m
訪城日;2014.6.13
服部陣屋は、高級旗本上田家5000石の采地陣屋である。
服部の地は野洲川東岸に位置し、元々は野洲川本流と支流に挟まれた中洲であったが、近年支流は埋め立てられた。
服部町は、大きくは津田集落と服部集落に分かれていて、陣屋は服部集落あった。この集落全体が陣屋地であったと思われ、現在も三方を水路に囲まれた平方形をとどめている。遺構は土塁がらしきものは見当たらないが、外周の水路は堀跡、津田集落内に壊れかけた移築門が残っている。
林の中に建物は見えるが無住で荒れ放題で
堀痕が周囲に残るが、宅地化で異形化している。
東側に土塁が残るが、土塁の内部は竹林(放置林)で確認出来ない。
北東から遠景(林部に建物、竹林部に土塁が残る)南から南から遠景
服部陣屋は、高級旗本上田家5000石の采地陣屋である。
初代・重秀が寛永十二年に賜った知行所は、近江国野洲郡内八ヶ村でした。
現在、守山市域に含まれる森川原、服部、立花、小浜、中主町に含まれる木部、比江、小比江、吉川の各村で、そのうち、木部、小比江は他の領主と相給でした。この辺りは、大名領や旗本の知行地が錯綜していた土地でしたが、拝領高が五千石、三千石、五百石というように整数で表されているのが特徴でした。
別表の上田氏の知行所でも、斗、升、合まで細かい数を組み合わせて整数に仕上げていることに驚かされます。 また、幕末にはこの辺りの開発が進んで、表高に比べ実高が増加していました。上田氏場合でも天保二年の時点で、実高が五千四百四十石ほどになっており、四百四拾石の剰余がありました。軍役、助郷役をはじめ土木工事のに人夫などは、表高によって負担することになっていたので、領主、村人にとつても表高をずっと据え置くことは有利でした。そたのめ、この辺りでは新規開発された田畑を帳簿外としておく例が多くありました。
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知行地 |
寛永高帳 |
元禄郷張 |
天保郷帳 |
旧高旧領帳 |
近江国野洲郡 |
森川原 |
555.213 |
555.213 |
555.213 |
555.213 |
服部 |
825.753 |
814.000 |
935.785 |
935.785 |
|
立花 |
369.328 |
369.328 |
370.324 |
370.324 |
|
小浜 |
586.250 |
586.250 |
587.470 |
587.470 |
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木部の内 |
703.922 |
703.922 |
703.922 |
703.922 |
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比江 |
1061.740 |
1061.740 |
1061.740 |
1127.346 |
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小比江の内 |
164.154 |
182.340 |
182.340 |
182.340 |
|
吉川 |
733.640 |
744.457 |
1043.000 |
― |
服部の地は野洲川東岸に位置し、元々は野洲川本流と支流に挟まれた中洲であったが、近年支流は埋め立てられた。
服部町は、大きくは津田集落と服部集落に分かれていて、陣屋は服部集落あった。この集落全体が陣屋地であったと思われ、現在も三方を水路に囲まれた平方形をとどめている。遺構は土塁がらしきものは見当たらないが、外周の水路は堀跡、津田集落内に壊れかけた移築門が残っている。
上田氏の場合も近江国野洲郡服部村に陣屋をおき、江戸から派遣した家来と現地採用の者で、その統治を行っていました。陣屋跡地は畑、民家、雑木林、産土神社の境内地などになっていました。そこには手水鉢、鏡石などが残されており、往事を偲ばせてくれま す。 また、近くにある法泉寺境内には上田家に仕え、この地で亡くなった家来の墓が数基残されています。
上田家服部陣屋跡地(2000年頃)
歴 史
上田氏の出自は、甲斐武田氏の支流盛義が信濃上田郷に住み、上田氏を名乗ったのが始まりとされる。
戦国期には丹羽長秀の家臣となり、長秀が没した重安(宗箇)の時に豊臣秀吉に仕え、越前国にて1万石を給わった。関ヶ原合戦は西軍に与したため領地を没収されるが、紀伊和歌山城主浅野幸長に招かれ、浅野氏が安芸広島移封後は亀居城17000石を与えられた。
上田重安の嫡男重秀は、将軍家光に召し出され、寛永12年(1635)近江野洲郡森川原・服部・立花・小浜・木部・比江・小比江・吉川の8ヶ村にて5000石の旗本に取り立てられた。次男の重政は浅野家に残り、その子孫は安芸浅野氏の家老職を世襲して明治維新を迎えた。
旗本上田氏は、のちに上地令により吉川村の替わりに武蔵国高麗郡に分地を拝領した。
以後旗本上田家は、江戸幕府の西丸御留守居・大目付・御留守居・御小性組番頭などを歴任し、高級旗本として10代続いて明治維新を迎えた
法泉寺駐車場(門前) 正面の林が「服部陣屋」
法泉寺
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!