初春の着物の作品展に出かけた
一時期もう買うものもなく見ても仕方がない、それに経営者世代が変わり、お客の層も変化し会場に行っても自分の場所がないような寂しさがあり(自意識過剰)何年か失礼していた
さくねんから「最近の傾向」も見たほうがいいかな、という思いでご案内をいただいたら行くことにした
チャ子ちゃん先生昨年「死ぬまで現場にいる」と肚を決めたので、これはやはり勉学が必要
そして昨日しっかり腑に落ちたことがある。「まさしく着物も二元化」したということ
かねて着物は大量生産は向かない、着たい人がいてその人たちに手の届く範囲に生産し値段も常識の範囲で。ということを主張していたがなかなかそうならず、着物をビジネスの対象として考える人たちの手によって大量生産、大量販売という方向に向かい、着物がタンスの中でぐっすり眠ってしまった。それが古着市場に大量に出回り、1000円単位の着物や帯になって消費者には歓迎されているが、手仕事の着物の価値は一気に落ちた
「着る人が多くなってイイじゃん」という人が圧倒的に多いが、「手仕事」という方向から見るとそれはあってはならない
着物を作り上げる「手仕事」の中には先祖の知恵が詰まっていて、その知恵が日常に働き、日々の生活に潤いを与えている
桑の木を育てる、蚕は桑の葉を食べて育つ、そうすると桑の木に化学肥料や農薬は無理、土を肥やすためには堆肥が必要、枯れた葉、毎日の食事から出るあまりの食材などからしてたい肥にする知恵、そうするとごみは出ないし循環する。太陽と雨などの恵みがプラスされ土は育つ。これは一例に過ぎないが人が生活するという基本は自然法則に適っているかどうかにある。「手仕事」はその自然法則と知恵を私たちに示してくれる
もはや人間は自然法則だけでは生きていけない状態になっている、機械生産の物のほうが手仕事生産の物よりはるかに多い。だからそちらも生活の中で必要であろう。着物も機械生産と手仕事にしっかり分かれていた
そしてこれからも永遠に残るのは「手仕事の着物」だと確信した。「この仕事は私で七代目、私は五代目、私は三代目、私は十代目」30,40代の若手が静かに家業を継いでいる。尊いことだ。この方たちを応援する方法は「着物を着る」それしかない
この若手たちは楽しんでいる。先祖から伝わってきた知恵をさらに次の世代につなごうとしている
笑ってしまったがチャ子ちゃん先生が取材した相手はみんな彼らのおじいちゃんであった!
「取材が珍しいころ初めて取材を受けた親父が大事に持っていた写真ですよ」彼らの父親の一人が見せてくれた
なんとその親父さんの隣で笑っているのはミニスカートをはき、トンボメガネのサングラスをかけた若きチャ子ちゃん先生
「きゃーいやーだ」