あしたはきっといい日

楽しかったこと、気になったことをつれづれに書いていきます。

ルックバック

2024-09-11 18:20:04 | 前に進む

ここ数年、観る映画の本数はだんだんと減っている。ほかの事に興味を向けているというのはあるけど、それだけではないような。淋しいけど、映画に対する関心が薄れているというのが正直なところだろうか。

さて、今年2月にもらった映画観賞券の期限が8月ということで、その映画館で上映されている作品を検索する中で知ったのが『ルックバック』だった。封切したと思ったらもう上映終了というのが当たり前に思える中、6月末の封切以降1ヵ月以上上映が続いていて、また上映時間が1時間弱という短い作品であることなどが気になり作品サイトの予告編を見たら、心を掴まれた。そして、8月半ばに観にいった。通常とは異なる料金体系とともに、鑑賞券が使えないということだった。それでも「観たい」と思えた。そう、アニメーション作品を観るのも久しぶりだった。

オープニングで流れた「作品」のオチに心がザワザワした。でも、そんな作風は子どもたち同士では受けるのかな…と。そして、その作品を描いた藤野と、引きこもりの京本の作品が学級新聞で並ぶ。京本の絵に衝撃を受けた藤野が「上手くなりたい」という気持ちを抱き、日々絵を描き続ける。映像に描かれた彼女の姿に、彼女の気持ちの強さを感じた。だからだろうか、その後藤本が絵を諦めるくだりに納得できたというか、安堵したような気持ちにもなった。

1回目に観たあと、ほんの少しだけど感想を書いた。「なんで描いたんだろ…」という藤野の気持ちが自分に強く響くとともに、たぶん、自分に対して言いたかった。

と、映画について語りたいと思うものの、残念ながらその相手が見つからないので、ここで、物語の内容に踏み込み、僕が勝手に思ったことを書かせてもらいます。原作コミックを読み、そして2回目の鑑賞でさらに気持ちが高まったのもあるかな…

 

その後、二人が初めて向かい合う場面は、引きこもっていた京本が部屋を出て、そして家を出て、藤野に声を掛けるところで胸が詰まる。二人の表情は異なるものの、実は同じ気持ちだったのかな… そう、それは二人が別々の道を歩もうとするところでも。「私と一緒にいれば全部うまくいく」という藤野。「もっと絵が上手くなりたい」という京本。二人の目指すところは同じだったのだろうけど、選んだ道程が違っていたんだ、と、改めて思う。京本の「絵が上手くなりたい」という気持ちの発端は、藤野が描く四コママンガにあったのかな。学校に行けない日々の中、時々届けられる学級新聞に掲載された彼女の作品に刺激され、京本は「絵を描きたい」と思い、部屋に籠る日々の中、絵を描き続けていた。廊下に積まれたスケッチブックは、その証。

そして、二人を永遠に分かつ事件が起きる。「なんで描いたんだろ…」と自分を責めるような藤野の言葉に、僕もよくそんなふうに思う時があると、心を抉られた。でも、初めて出会ったときに「またね」と笑顔で彼女を見送った笑顔も、「部屋から出してくれてありがとう」という言葉も、京本の心からのものだった。そう、「もっと絵が上手くなりたい」という気持ちも。藤野の行動は彼女の選択にきっかけを与えたけど、選んだのは京本自身。彼女はその瞬間までいまを楽しみ、いずれまた藤野と歩んでいく自分を思っていたのだろうと。

あの痛ましい事件を想起させるようなエピソードに、その事件や、各地で起きる自然災害などで犠牲となられた方々のことを思った。突然に生を断たれる理不尽さや、事件では加害者に対する強い憎しみを抱く。それは当然なのだろうけど、犠牲となられた方々が「犠牲者」としてのみ語られるのもまた理不尽なように感じる。一人ひとりが最後の一瞬まで、精いっぱい、楽しみとともに或いはその先の楽しみを思いながら生きていた。そのことの方がその方々にとって価値あることなのだと思う。

京本が藤野の背中を見て歩いていたのと同じく、藤野もまた京本の背中を見て、二人で前に向かって歩いていた。悲しみに包まれながらも、まっすぐに前を向いて一人歩いていく藤野の背中を見つめ、歩こうとする人たちがきっといる。そして、その藤野が見つめる先にはきっと京本がいるんだろうとも。あの事件は、二人を永遠に分かつ一方、二人の心を永遠に繋ぎ止めるものにもなったと思う。だから、藤野はこれからも「藤野キョウ」として、京本と共に描き続ける。

藤本タツキさんの気持ちが込められた作品に共鳴された押山清高監督がその力を注ぎこみ、多くのスタッフが作り上げた作品。そして、藤野と京本の存在をスクリーンに浮かび上がらせる上で重要な「声」を演じられた河合優実さん吉田美月喜さんの熱演も伝わってきた。さらに、二人に寄り添うように流れる haruka nakamura さんの音楽にまた魅了された。昨年観た『ガウディとサグラダファミリア展』会場で流れていた、NHKの番組に使われた曲で初めて知って以来、uraraさんの歌声と優しいメロディが時おり心の中に流れる。

さて、この先も上映が続くようなので、もう一度、いや一度とは言わずまた観に行きたい。その都度彼女たちについて想い、そして、自分のことを想いながら。

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翻訳できないわたしの言葉

2024-07-03 20:55:02 | 立ち止まる

先日、東京都現代美術館『翻訳できないわたしの言葉』を観に行った。

昨年の『あ、共感とかじゃなくて。』の記憶がまだ残っている中、この企画を知ってすぐに行きたいと思ったものの、結局会期末近くでの鑑賞となった。

「わたしの言葉」は果たして伝えたい相手に伝わっているだろうか。そんな疑問を常々感じ、迷いや諦めの気持ちと共に日々過ごしている中で、何かを得られればという気持ちもあった。結果として何かを得ることができたかはまだ分からないけど、少し気持ちが楽になったような感じはする。というのは…

「伝わらない」は誰もが持っている悩みだということを、今さらながら考えた。気持ちが楽になったのはそのことにだった。けれども、そこで開き直ってしまっていいのだろうか…と。どんなに丁寧に言葉を重ねても、その先にいる伝えたい相手は僕と全く同じスタンスにいる訳ではないし、言葉が独り歩きしてしまうこともある。もしかしたら、僕の選んだ言葉が間違えているのかもしれない。

いま、展示に触れた時に感じた気持ちを思い出しながら、わたしの言葉はその時に発したり綴ったりした言葉だけではなく、日々の中で発する言葉や取っている行動と共にイメージされるのではないかと思う。

そういえば、最近はあまり言葉を発しなくなっている。相手の中に極端な解釈をする人がいるからというのもあり、臆病になっているのかもしれない。沈黙したらお終いだと思っていた僕が、今ではそんな状況だ。もっと端的に言うと、信頼できる人が非常に限られているということ。淋しいけど、今しばらくは傘の下で雨が止むのを待つしかない。淋しいけど。

でも、今回の展示で今の僕の考え方とは全く違うスタンスで、積極的に言葉を発し、聴こうとする人たちがいるということに、勇気というか力をもらえた気もする。そんな感じもまた、前段で書いた「少し気持ちが楽になった」に、違う流れで繋がったのかもしれない。雨が止んだ後も傘を差し続けないために、そして、雨が止んだことに気付けるように、その気持ちは断ち切らないようにしよう。

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夜明けのすべて(映画)

2024-02-24 10:00:16 | 映画を観る

もうすぐ3月になるというのに、今年に入って初めての記事をようやく書いている。書きたいことがなかった訳ではないけど、書くのが億劫になっていたのかな… 動画の方は週1本に近いペースで上げているんだけど。

さて、こちらも今年に入って初めてになる映画鑑賞。一本目に選んだのは、瀬尾まいこさんの小説を上白石萌音さんと松村北斗さん主演により映画化された『夜明けのすべて』。原作を読んだのは2020年の秋で、このブログにも感想を書いた。藤沢さんが山添くんの髪を切るシーンはとても印象に残っている。いつかこの作品が映画化されるだろうとは思っていたし、それは期待とともにあった。その報せは、二人が主役という驚きと共に届けられた。そう、朝ドラ『カムカムエヴリバディ』で夫婦役を演じた二人じゃないか!って。まだドラマの余韻が心の中に残っていて(今もだけど)、嬉しさと共にその報せを受け取った。で、映画のSNSをフォローしたりして公開日を待った。

最近の映画は封切り後2週間ほどで上映館・上映回が少なくなるパターンなので、公開2週間以内に観に行こうとは思っていたけど、言い訳や別の用事などで先送りにしていた。ようやく選んだのは三連休前の木曜夜の回。ちょうど特別な上映だったので館内はほぼ満席。そして、僕のようなおじさんの姿は見られなかった。まあ、それはいいんだけど。

小説の細部までは鮮明に覚えていないものの、正直冒頭から「こんな設定だったかな?」という思いが生じた。ただ、それは違和感を伴ったものではなく、次第にスクリーンに映る物語に引き込まれていった。そして、主演の二人は当然ながら朝ドラの二人ではなく、その動き、語る言葉、纏う空気感が、疑いようなく藤沢さんと山添くんだった。それは、三宅唱監督による演出によるところだろうけど、主演に二人を選んだ時点で賞をあげたいくらいな…って、それも三宅監督への賛辞になるかな。

映像化するにあたって、その時間の長さも含めてさまざまな設定に手が加えられていたけど、そのいずれもが瀬尾さんが描く世界を「映画として伝えるためには」という気持ちからのものだったのだろうことが観る側にも伝わるものだった。そして、主演の二人に注目しがちだけど、二人が勤める会社の社長を光石研さんが演じられていたのが嬉しかった。昨年のドラマ『帰らないおじさん』でも素敵なおじさんを演じられていたけど、この人が社長さんだから二人は大丈夫って、何が大丈夫だかとは思うものの、そう思った。ちょうど翌日朝の番組で光石さんのインタビュー番組が放映されていて、改めてそう感じた。

いま、この感想を書いていて、改めて本を読んだ時の感想を読み返して、もう一度この本を読んでみたいと思った。そして、今の僕は「誰かに光を当てたり水を差したりすることができる存在」になりえているだろうか。

僕を含め、人々がより利己的になり、また周囲からも自分自身からもスピードを求められる時代になり、それは何もしなければますます加速していくだろう。そんな中、ほんの少し立ち止まり、現実と自分の想いとのギャップを、まずは噛み締めてみよう。そこからどの方向に、どれくらいの速度で歩き出すかはその人それぞれ。でも、噛み締めた時間はきっと無駄にならないと信じたい。

さて、僕はどっちに歩いていこうか…

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2023年

2023-12-31 21:48:26 | 立ち止まる

今年はもっとブログの記事を書こうと思いながら、結局は数本しか書けなかった。ここ数年、大晦日には同じような言い訳をしていて、今年もまたそれを重ねてしまった。まあ、それが僕の現在地ということ。ただ、大晦日だけは言葉を残しておきたい。

さて、今年は僕にとってどんな年だっただろうか。いいこともあれば悪いことも。そして、そんなと思えるようなこともあった。詳しくは書かないけど、思い返すだけでイライラしてしまうような出来事も。それは僕に隙があったからと言うこともできるけど、隙のない人生・隙のない人ってどうなんだろうか。とはいえ、世の中には自分のために他人の隙を巧みに利用する人もいる。そう、僕が人と深く関わりたくないと思う理由もそこにある。そもそも、人と人が深く関わらなければならないなんていうのは、現代に普遍的に通用する考え方ではないように思う…なんて書いていて、そう思う自分でも少し寂しさを感じるけど。

特に、仕事の関係者とは適度な距離を保っていた方がいい。人間関係が仕事にも影響するというというのは多くの人が思うところだろうし、僕もそう思う。だけど、それを前提として「だから」から先が異なってくる。日頃から良好な関係を築くべきという考え方が主流なのだろうか、でも、僕はそうは思わない。もちろん「対立すべき」という訳ではないけど、対立したとしてもそれが最善を目指すために必要であるなら対立を避けてはいけない。そして、前者にはどこか胡散臭さも感じる…などと職場で言おうものなら反発を受けるのは必至だな。

仲の良し悪しやその人との距離によって評価が左右されるなんてことはないと思いたいけど、実際にはあるんだろうね。そこが人間の弱さであり、人間らしさと言えばそれまでだけど。

と、つらつら書きながら、年末を迎えてもどこかスッキリしないんだけど、それに拘っているのも、自分が負けたというか、自分らしさ(漠然としているけど)を失ってしまっているというか、そんなふうにも思える。年が明けたらスッキリするものでもないだろうけど、これからも職場では個人的な関わりを極力持たないようにしていこう。

そして、大切な人間関係は大事にしていこう。そう、微かにゴールが見えてきた人生を有意義に過ごしていこう。

と、愚痴だらけの締め括りになってしまったけど、ともによい年を迎えましょう。

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植物の祭典

2023-11-05 11:14:09 | 旅する

三連休の初日、小石川植物園で開催の小石川植物祭を訪ねた。

動画はこちら

このイベントのことを知ったのは、6月に初めて小石川植物園を訪ねた時だった。さて、どんな祭なのだろう…と思うとともに、植物に対する興味が湧いたこともあって、さっそく予定を入れた。

植物園に向かう途中、紫色の美しい花を見かけた。

しばし眺めていると、蜜を吸う鳥?が。

これまでも何度か出会ったことがあるけど、いったいこの生き物は何なんだろうと調べてみると、蜂雀(ホウジャク)という蛾の仲間のようで、なるほど胴体のフサフサした感じがモスラ系というか、何となく納得した。

普段は開いていない入口から植物園に入ると、既に多くの人が集まっていた。皆さん、日頃から植物に関心を持った方々なんだろうなと思うとともに、俄かな自分に若干恥ずかしさを覚えながら。

園内各所にイベント出展ブースが設置され、それぞれ興味深い企画を提供されていた。

すべてを体験するには時間も…も足りないこともあり、いくつか絞り込んで体験した。中でも「旅する木々の物語」という園内ツアー企画は、ガイドを務めていただいた崎尾均さんのお話がとても興味深く、生命を繋いでいこうとする植物の意志のようなものを感じながら愉しんだ。

スズカケノキやプラタナスの、ラクウショウとメタセコイアの、など、植物の生い立ちや似て非なるものなどのお話を伺いながら園内を散策するのは、とても贅沢な時間の過ごし方だなって。

そして、ふだんは石彫をされている作家さんによる、園内で出た木材を用いた木彫も、その表情が魅力的で、作家さんに伺うお話も興味深かった。

そう、動画で紹介したけど、園内を散策中にカマキリを持った子に声を掛けられた。ほんの短い時間だったけど、なぜ僕に声を掛けてくれたのかとか、その様子ってどんな風に見えるのかな…とか、考えてみるとおもしろいけど、とても愉しいひとときだった。

それと、こちらは動画に残すことはなかったけど、植物園を出たところでベンチに腰掛け、近くにいた方に会釈をすると、そこから会話が始まり、なぜかその方のお知り合いが東大でシダの研究をされていたといったお話を伺った。研究では飯は食べていけないと最近民間企業に就職されたというところまで伺いながら、その方がプライベートなどで情報発信されたら面白いのではとお伝えした。SNSならすぐにでもできるだろうし、いずれ出版とか… せっかく得た知識をアウトプットしてより一層自分のものにする機会があればいいなって思う。シダってデザインのモチーフになることもあるから、そういうところに繋がっていくこともあるかもしれないし、広がりを愉しめたらいいな。

そんなこんなで、園内で5時間近く過ごしたけど、足には疲れがきたものの、充実した時間を過ごすことができた。

また来年も来てみたいし、植物園には季節ごとに訪ね、季節ごとの魅力を感じたい。

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雲海を観に行こう

2023-10-29 09:58:00 | 見つめる

先週くらいまで仕事が忙しくて…というか、これからも忙しさは変わらないけれど、休日出勤の振替で金曜日に休みを取り、長野まで出掛けた。

動画はこちら

仕事を終え、家で夕食を食べてから、22時少し前に車で出掛けた。20代から30代の頃はそんなの苦にならなかった。母や妹を連れて遠くに出掛けたりしていたけど、40代後半になるとだんだんと車の運転も億劫になり、あまり無理をしないようになっていた。ただ、この日は「雲海を観る」という目的を掲げていたのと、近くに前泊というのも難しいだろうと、深夜に車を走らせることにした。

仕事の疲れもあり、なるべく多めに休憩を挟むようにしたけど、それでも寄る年波には勝てず、100%回復には遠く及ばない程度でまた車を走らせた。

一般道も高速道路も、年度末でもないのにあちこちで工事をしていた。本来であればこれが通常の光景なのかもしれない。予算が余っているから年度末に消費するという考え方は今も残っていると思うけど、この国はもうそんなことを続けられるほどの余裕は持っていないし、人のやりくりも海外に頼らざるを得ないくらいだし。頼みの綱の海外からの労働者も今後が見通せないだろう。

さて、そこまで深くは考えなくとも、眠気覚ましもかねてあれこれ考えながら、3時少し前に現地の駐車場に到着した。すでに先客らしい車が何台も止まっていて、おおむね内側からガラスに目隠しをするなど万全の夜明かし対策が講じられていた。

そんな中、夜空を見上げると普段は見ることができない、たくさんの星が輝く光景が広がっていた。持参したコンパクトカメラに小さな三脚を繋ぎタイマーを使って撮ったものの、三脚とミラーレス一眼を持ってこなかったことは後悔した。車で来るんだから、それくらいの荷物が増えても大したことなかったのに…って。

さて、静まり返った駐車場に少しだけだけどシャッター音を響かせた後、僕は運転席の椅子を深めに倒し、持参したネックピローを普通の枕のように頭に敷いて横になった。疲れもあったのか案外眠ることができて、5時少し前に目覚ましが鳴るタイミングで目を覚ました。

ゴンドラのチケットを購入して乗り場まで歩く。思いのほか距離があったけど、体の芯から目覚めるにはちょうど良かったのかも。本格稼働する冬のスキーシーズンとは違うし、また週末とはいえ平日だったので、相乗りではなく一人で乗せてもらえた。上を眺めても暗くてよく見えなかったけど、麓側の目の前には今まさに太陽が昇って来ようかと言う景色が広がっていて、ここまで来た甲斐があったというのか。

先客の方々と、後から来る方々と共に日の出の瞬間を待つ。まあ、この時点で雲海は諦めていた。前日にここ富士見パノラマリゾートのホームページで「雲海が現れる確率40%」を確認していたので、そこまでショックではなかったけど、残念なことには変わりない。

日の出を見るのは昨年の年末に九十九里海岸を訪ねた時以来。あの時は日の出を見るためだけに出掛けたけど、今回はもう一か所目的地を考えていた。

美しい光景を眺めてから、さてこれからどうしようかといつものようにノープランの悩みが浮かんだものの、すぐ脇に「入笠山頂まで60分」という看板を見つけ、なぜかあまり迷わずに看板が指し示すその道へと入っていった。というのも、何年も使っていなかったトレッキングシューズを履き、同じくのトレッキングポールを持っていたからという単純な理由からだ。そして何より「60分」という所要時間が「可能なもの」という意識を強く擽った。

はじめのうちは山道の散策程度に感じられたけど、湿原を抜け、山小屋のある辺りから登山路に入っていく辺りから若干の後悔の念が浮かんだ。まあ、ここまで来ると引き返すのはどうかなと思うのと、それを「勇気」と称賛されるほどの難易度ではないと…そう「60分」だし。

ただただじっと日の出が作る光景を見るために厚着をしてきたのが、山歩きにはむしろ暑さに繋がった。実際に汗だくになったので、中に着た上着を脱ぎリュックに入れ山頂を目指した。

ようやく山頂に着くと、360度見渡せるパノラマにここまでの苦労(の足元にも及ばない…)が報われたと思うとともに、汗をかいた体が冷たい風を受け冷えていく感覚があった。膝の辺りに衰えを感じるものの、まだまだ歩けるうちに少し負荷をかけた歩きを愉しもう(か)と思った。(か)は留保の意味で。

ゴンドラ駅に戻り併設されたレストランに向かうと、営業は8時までとなっていた。入笠山の山頂へ行かなければという気持ちが過ったものの、それもまた愉しいと思えた。

その後、富士見の街で買い物をしたりして、次の目的地へと向かったものの、その途中で睡魔に襲われ、事故を起こさぬうちにと思い仮眠を取ったら思いのほか眠ってしまい、その目的地へ行くのを諦め家路に着いた。

行き当たりばったりは僕の人生そのものだなって思うけど、今さらそれを変えようとも思わないし、ならば最後までそんな人生を愉しんでみようとも思う。

ということで、中年真っ盛りにもかかわらず頭の中のかなりの領域を占める「行きたい場所候補」に「山野草のきれいな場所」と「夜空の星を眺める場所」を改めて加えた。

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私たちの世代は

2023-07-31 20:39:59 | 本を読む

瀬尾まいこさんの『私たちの世代は』を読んだ。

瀬尾さんの作品には毎回心を温めてもらい、そして、また少しずつ歩いていける気持ちを持たせてくれる。ここ数ヶ月、ずっともやもやしていた僕の心の雲をやんわりと吹き飛ばし、暖かな陽を差し込んでくれたように思う。

物語の主人公は、冴と心晴という二人の女の子。共に同じ町で育った同じ年の二人は、小学三年の末に新型コロナウイルスの影響に見舞われた。

その時を境に、二人の学校生活はそれぞれ大きく変わっていく。その点で、二人にとって「コロナ禍」は災いそのものだった。多くの命が奪われ、感染した人たちの中には今も後遺症に苦しんでいる人もいて、大半の人たちにとって災いであったと言えるけど、二人のように心に傷を負った人たちも大勢いることは、自分を振り返れば想像に難くない。
 
でも、瀬尾さんが描く物語はそれで終わらない。それを期待して彼女の作品を読んでいるというのもある。
 
別々の環境で育った二人があるきっかけで出会い、互いに距離を縮めていく過程がおもしろい。そして、毎度ながら主人公を取り巻く登場人物が魅力的だ。瀬尾さんの作品には必ずと言っていいくらいに、誰かを強く引っ張ったり後押ししたりする人が登場して、僕はそんな人の活躍に魅了されている。この作品でのその人は、冴の母親だというところまでは言ってもいいだろうか。娘に対する彼女の惜しみない愛情は、まわりまわって冴を支えてくれる。「それでも…」という思いは読者みんなが抱くだろう…と、それくらいにしておこう。そう、母親の惜しみない愛情は、心晴にも注がれていたことは書いておきたい。

あの災禍は自ら望んだわけではないし、それを呼び寄せた原因を作ったわけでもなく、またその影響をコントロールできるほどの知識も経験もなく(それはあのときを迎えた大人にも言えることだけど)、ただただ誰かが打ち出す方針に従うしかなかった。そして、その状況を甘んじて受け入れていた面もある。考えなくていいから…ということもあった。でも、それってあの災禍の下だからだったのだろうか。と、「いつだって人生は厳しいし、学校生活は楽しいことばかりじゃない。」という台詞が心の奥深くに刺さった。

冴や心晴と同世代の人たちの感想をぜひ聴いてみたいと、姪や大切な人の姪っ子さんのことを思い浮かべた。でも、彼女たちは自らの力で今を生きている。

さて、読み進めていく中でここしばらく頭の中の一定部分を覆っている出来事について考えていた。物語に引き込まれていくとともにそれは小さくなっていったけど、一方でコロナ禍によって可視化されたことも多々あるなって思った。その一つとして、在宅勤務に対するスタンスが挙げられる。仕事の効率化に活用していると思われる人もいれば、そんな風に見せかけているだろう人も。後者に対しては苛立ちを禁じ得ないけど、もう少しすれば「可哀そうな人だな」って思えるようになるかな… そして、そんな人たちのことを考える時間があったら、立ち上がろうとする人や前へと踏み出そうとする人たちに寄り添おう。

結びが本の話から逸れてしまったけど、コロナに勝つとか負けるとかではなく、僕は僕の道を歩いていけたらいい。

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山道の先に

2023-04-20 22:58:35 | 前に進む

なかなか会うことができない遠くに住む友だちがこちらに来られるというので、空港からの送り迎えを買って出た。車の中ならずっと話していられるんじゃないかって思いながら、その日を楽しみにしていた。

迎えた当日、まずは到着に間に合うようにと羽田まで車を走らせた。ほぼほぼ予定通りに空港の駐車場に車を停め到着場所に向かおうと思ったところ、駐車券を持たずにいたことに気付いた。しばらく車内やカバンの中を探してもなかなか見つからなかったけど、何とか見つけてターミナルビルへと向かった。

この日の動画はこちらから

空の旅はもっぱらANAを利用するので第1ターミナルを訪ねるのは10年以上振りだった。チェックイン端末が並ぶ様子も第2ターミナルとは全く違い、それがまた興味深かった。

空港からの行き帰りの車中はほぼほぼ聞き役に徹した。友だちは普段誰かの話を聞く側なので、こういう時ぐらいはいいんじゃないかって思う。まあ、聞いてほしいことが無くもないんだけど、それはまた次の機会でもいいかなって。

友だちを目的地に送り届けたのち、独り車を走らせた。カメラを持ってきたので景色の良さそうな場所を探しながら…って、探しながら車を走らせた訳ではないけど。スマートフォンの地図で「展望台」を検索したら、割と近くにその場所を見つけた。ただ、そういう場所は平地からだとそれなりに上がって行かなければならず、また道もそれなりに狭い。とはいえ、まだまだ運転は楽しいと思えるので、10年以上乗り続けるコンパクトワゴンでもそれなりに走りを堪能した。

ちょうど天気も良く、展望デッキではハイカーの方々が記念写真を撮ろうとしていた。そういう様子を見るとつい「シャッターを押しましょうか?」と声を掛けたくなるけど、この日もやはりそういう感じで、喜んでシャッターを押した。その時の、そして撮った写真を確認してもらう時の表情を見るのも楽しみだったりする。

再び友だちと待ち合わせ、羽田まで向かった。途中関越道で事故渋滞に巻き込まれ互いに言葉も出ない時が流れたものの、渋滞を抜ければあとは順調に空港までたどり着いた。空港に近づけば別れの時ももうすぐだと淋しさを感じるものの、遠方からの日帰りによる疲れをなるべく軽くできたらという気持ちもあった。

次に会えるのはいつになるだろう。会いに行くには思い切りが必要だったりする。いや、そんなふうに自分にブレーキを掛けているのかも…と。それを否定するためにも、次の予定を立てよう。

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緑を求めて

2023-04-15 08:06:45 | ふらり

時々、緑の中に身を置きたくなる時がある。大抵は疲れている時なのかな。

遠出をしたいという気持ちもありつつ、移動の煩わしさや疲労を伴うだろうことを考えると躊躇してしまうのは、きっと「もう若くはない」ということの裏返しなのだろう。

そう、近場にだって、東京都区部にだって、緑を楽しめる場所がある。そのうちの一つが、この日訪ねた石神井公園。池もあり、この時期ならまだ渡り鳥が羽根を休めている姿も見ることができる。

の日の動画はこちらから

遠出にはならないけど、少し早めに家を出て、7時過ぎには辿り着いた。早朝の空気感が緑と相まって、ここが23区内であることをひととき忘れさせてくれる。まあ、忘れなくてもいいんだろうけど。その景色に鳥の囀りが響く。そんな中をゆっくり、意識的にゆっくりと歩く。時の流れを感じながら。

途中、大きなレンズを付けたカメラを持つ人たちの姿を見かけ、そのレンズが向けられた先に注目すると、そこにはカワセミの姿があった。

その輝きに多くの人が魅了されるのもよくわかる。それは、僕もまたその姿に魅了されたから。次の予定を気にしつつも、こういう出会いは大切にしたい。そんな気持ちとともに、その光景を味わった。

さて、ここを訪ねた理由の中に、園内に根を張るメタセコイアの木々を見たいというものだった。紅葉した姿も美しいけど、新緑の頃もまた見応えがある。そこには、思った通り、いや、思った以上に美しく緑を纏った姿が待っていた。少しずつ、そして確実に、疲弊した心にエネルギーが貯まっていくのを感じながら、風に揺れる姿を見上げた。

売店が開いていなかったので朝酒とはいかなかったものの、寧ろアルコールによって千鳥足にならなくて良かったんだろうな。

その後、少し歩いて隣の駅近くにある牧野記念庭園を訪ねた。

植物学者の牧野富太郎博士が晩年を過ごされた邸宅の跡地に建つ記念館と、博士が植えられたものをはじめ数々の植物が彩る庭園を、ゆっくりと愉しんだ。

ちょうどこの日まで、牧野博士の生誕160年を記念し募集された博士への手紙の入選作を展示する企画が行われていた。普段ならながし見くらいで済ませてしまうところ、それぞれの手紙に込められた思いが僕の心の奥に響いたようで、じっくりと読ませていただいた。展示の中には、恵泉女学園の山口美智子氏に充てた牧野博士の手紙も展示されていた。恵泉女学園と言えばつい先日、大学の閉学を前提とした学生募集停止というニュースに触れ、過去に深く関わった仲間がこの大学の卒業生だったことを思い出した。そして、この学校の取り組みを知り、今後より強く求められるものだと思った。昨今、大学教育が企業などからの「即戦力」の要望に応えるものになる中、こうした本質的な学問へのニーズが低下してしまうのは致し方ないと思う一方、それだけこの国に将来を考える余裕すら無くなっているのかと淋しくなる。中学・高校は残るそうだけど、これまで培われた大学教育の場が何らかの形で継続される可能性を模索してほしいと願う。

開園の9時過ぎに着いたときにもすでに先客がいらしたが、1時間ほど後に庭園を後にする頃には多くの人が集まっていた。先日から始まった朝ドラの主人公が牧野博士だということで、今後さらに多くの人が訪れるようになると思うと、また季節ごとに訪ねるとしても、開園すぐか閉園間際がいいのかな。

この日はもう少しあちこち歩けたらと思いつつ、最寄りの大泉学園駅から帰途についた。言うまでもなく、「銀河鉄道999」ではなく、一般的な電車に乗り込んで。

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進もう

2023-04-02 21:00:07 | 前に進む

1月末に今年初めての記事をアップして以降、ここに新しい記事をアップすることをサボっていた。そもそも1月末まで書けなかったことをどうかと思うものの、振り返ってみるとその直後に厄介ごとに巻き込まれ、仕事にも影響が出てしまっていた。

ただ、そんな中でも動画はアップし続けて、今年に入ってから16本の動画をアップした。

Kozy is Walking

初期はBGMを入れていたけど、その後は録画した現場の音をそのまま使っている。著作権のことを気にしてというのが理由だけど、これはこれでいいんじゃないかなって思っている。そして、当初から拘っているのは字幕だ。動画だけで表現すべきなのだろうけど、文字にして伝えたいという思いが強いのかな。だったらここでも書いたらと言われるかも…だけど、動画の字幕に拘っているからこちらが疎かになってしまっていると言ったら言い訳だね。

老後の趣味の予習にと始めたけれど、視聴数はだいたい一桁。それでも視ていただけることがありがたいし、何よりも表現手段の一つとしてとても面白い。

このブログを始めたときにも、文章を書く力を身に着けたいといった理由があった。その成果があったかどうかは別として、言葉を紡いでいくことが楽しいと思えた。動画は続けるとして、このブログもまた書き続けたい。時に動画の紹介でもいいかもしれないし、動画では表現できないことをこちらでというのが理想的なのかな。

さて、次の記事はいつアップすることができるかと、自分自身に問うてみる。

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