あしたはきっといい日

楽しかったこと、気になったことをつれづれに書いていきます。

歌舞伎『平家女護島』

2018-10-10 06:20:09 | 芝居に魅せられる
興味が無かった訳ではないものの、これまで歌舞伎には縁がなかったけれども、先日吉田修一さんの『国宝』を読み、一度観てみたいと思った。そうなるとすぐにというのがいい意味でも悪い意味でも僕の癖なので、直近の演目や空き具合などを検索し始め、国立劇場でこの『平家女護島』という演目が掛かるというのを知った。そして、この演目が「鹿ケ谷の陰謀」に関するものだと知り、迷わず観に行くことを決めた。



さて、出演される役者さんで僕が知っていたのは、平清盛と俊寛を演じられた中村芝翫さんのみだ。そして、その芝翫さんも橋之助さんのイメージが強い。そんな感じで舞台でも彼を中心に観ていた。ところが、二幕目の鬼界ヶ島で海女の千鳥が登場した途端、その姿に目を奪われた。衣装によるところもあったと思うけど、舞台にパッと花が咲いたような印象を受けた。そして、その所作を観ながら『国宝』で描かれた女形の美しさについて考えていた。

千鳥を演じるのは坂東新悟さん。注目の若手女形だそうで、機会があればまたどこかの舞台で拝見したいという消極的な言い方以上に、観たいと思う。

そして、この場面の終盤での情感溢れる俊寛の姿に、思わず涙が溢れてくると共に、その涙に戸惑いを感じていた。それは、伝統芸能は形式美を堪能するものだという固定観念を崩されることへの戸惑いだったのだろうか。

第三幕はその思いを抱えたまま、最後まで観続けた。ただ、観る前にプログラムであらすじを確認してしまったのが悔やまれる。

大河ドラマで平清盛について知った僕には清盛を悪役に描くという善悪の捉え方に抵抗がなくはなかったものの、舞台上の世界に引き込まれていた。そして、ほんの少しではあるけど歌舞伎の魅力に触れられたのかなと思えた。

そう、幕間に食べる幕の内弁当も、終演後に乗った劇場バスもどこか特別な感じがして、それもまた観劇の楽しみに感じられた。





また近いうちに観に行きたいと思う。その際は、傾斜のついた2階席でもいいんじゃないか、いや、そこから一度観てみたいと思った。そんな、大人の楽しみに似合う大人に、まだまだなれていないなあと思いながら、思う。



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たとえば野に咲く花のように

2016-04-24 22:45:14 | 芝居に魅せられる
昨日、新国立劇場の舞台『たとえば野に咲く花のように』を観に行った。

この劇場を訪れるのは、3年前の『象』以来だ。

この間、劇場のホームページをチェックしていたけど、強く「観たい」と思う作品がなかったからなのだろう。いや、もしかしたら演劇に関する興味が薄まってしまったのだろうか…

そんな中、この作品を観たいと思ったのは、脚本を書かれた鄭義信(チョン ウイシン)さんによる『焼肉ドラゴン』『パーマ屋スミレ』を観ていて、この2作とともに、後に「鄭義信三部作」と呼ばれることとなるその第一作であるこの作品を、生で観たいと思ったからというのと、若手女優の中で好きな村川絵梨さんが出演されるのを知ったからだ。

実はこの作品をテレビ中継(録画)では観ている。ただ、その時は「いい作品だなあ」くらいにしか感じなかった。でも、同じくテレビで観た『焼肉ドラゴン』は再演が決まるとすぐにチケットを確保して観に行った。そして、その時の感動が忘れられないうちに『パーマ屋スミレ』を観て、心を震わせた。

一時期は連続して観に来たこともあった劇場に入るとまず「帰ってきた」という感じがした。幕間に楽しんだホワイエでのお酒だけど、この日は幕間の休憩がないので、そのまま客席へと向かった。

目の前には既に観た2作品と同様に、昭和を感じさせるセットがあった。BGMが流れる中、静かに始まる。そう、この感じが好きだったんだよなと思いながら、舞台に見入った。



1951年夏の九州F県にあるとある港町のダンスホール。そこに生きる女性3人と、彼女たちを愛する男たちが、時代に翻弄されつつも逞しく生きていく姿が綴られていく。戦争で奪われた愛する男性を想い続けながらも、日々の暮らしのために働く主人公・満喜。そんな彼女を愛し求める 康雄。許嫁の康雄に離れられ、彼を憎みながらも愛し続ける あかね。康雄を兄と慕いつつもあかねに思いを寄せる 直也。4人の男女の結ばれない愛が、戦争の影が色濃く残る中、その傷も癒えぬ中で起きた朝鮮戦争、そして、その時代を自らが引き裂かれるような思いで受け止める在日朝鮮人という存在とともに、深く描かれていく。

朝鮮戦争での米軍上陸作戦の露払いのために、極秘で機雷掃海の任務に向かう海上保安官が登場するシーンに、安保法制施行により自衛隊が米軍の下請けを担わされるだろうということが連想され、「これは今の日本を映し出しているのかも…」と思った。パンフレットに掲載された鄭さんと演出の鈴木裕美さんとの対談での、鈴木さんの「9年前より、戯曲をリアルに感じられる部分がたくさんあります」という言葉にも現れていた。
イラク戦争などはあったけど、日本が戦争に近づいていくというのは9年前にはリアルには感じられなかった。そして、これほど急激に戦争に近づいて行くなんて思いもよらなかった。

そして、9年前といえば金大中大統領時代の日韓友好ムードがまだ残っていて、現在の「嫌中・嫌韓」というのは異端・極論として扱われていたと思う。その後、双方が相手を憎むようになったのは、それぞれの市民からというより、それを利用しようとした政治家に乗せられたからなのだろう。


あかねが愛する人を奪った満喜に対し、朝鮮人だと罵る場面はあったけど、それが決定的に彼らの「愛」を阻むものではなかったと思う。いや、その愛を阻んでいたのは、戦争と、そして戦前から続く日本と朝鮮との関係だったということなのだろう。だからなのか、他の2作ほど「在日」ということを強く感じることがなく、4人の、そして彼らを囲む人たちの「愛」の物語だと思った。

けれども、自分たちの苦労を50年後の在日朝鮮人はきっと「小さなこと」と思うだろうと希望を込めて語る満喜の台詞に、少し、後ろめたさを感じた。

最後の幕で、満喜をはじめ3人が大きなお腹を抱え、これからの旅立ちを前に仲間と共にお茶を飲む。満喜が蓄音機にレコードを乗せて回し始める。流れてくる曲は『虹の彼方へ』。彼女はその彼方に素敵な場所などないとわかっていながらも、生まれてくる子どものためにその場所を願ったのかもしれない。そして、そのシーンに涙で目が潤んだ。




日韓関係が好転することを願わない訳ではないけど、この舞台を観て強く思ったのは、人を愛することがどんなに素敵なのかということだ。そして、劇場を出て新宿へと向かう交差点で、諦めかけた人を思いながら夜空を見上げた。
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負傷者16人

2012-05-18 00:03:25 | 芝居に魅せられる
今夜は新国立劇場の舞台『負傷者16人』を観た。

舞台は1990年代のオランダ・アムステルダム。パン屋を営む中年ハンスは、馴染みの娼婦ソーニャのところから帰るところで、刺されてのたうち回る青年を見つけ、入院費を出してまで彼を保護した。はじめはそんなハンスに反発していた青年は、彼の優しさに触れ少しずつ心を開いていく。

ハンスの店で働くことになった青年マフムードは、店に出入りするダンサーのノラに恋をし、2人の間には新しい命が宿る。少しずつしあわせに近づく彼らが、幕間を挟んで一転、何かに吸い込まれていくかのようにもがき、苦しんでいく。

1993年、イスラエルのラビン首相とパレスチナ・PLOのアラファト議長が歴史的な握手を交わした。その光景に中東和平が現実に近づいたと思ったのもつかの間、その2年後にラビン首相は和平に反対するユダヤ人青年に暗殺された。あれから20年が経とうとしているが、事態は一向に変わらず、僕自身もその地への関心を無くしていた。

益岡徹さんは、ハンスの優しさとその裏に隠された苦悩を表情豊かに演じられていた。井上芳雄さんは、青年マフムードの意固地さと素直さを力いっぱい表現していた。ミュージカル畑というイメージを持っている(見たことはないけど…)が、癖を感じることはなかった。ソーニャを演じるあめくみちこさんがハンスを優しく包むシーンは、娼婦の打算と自分自身の心(たぶん)との合間をやわらかく表現していた。ノラを演じる東風万智子さんは、マフムードに対する複雑な思いを、心の揺れを、やはり素直に演じられていた。そして、もう一人の登場人物を演じる粟野史浩さんが登場し舞台が一変すると、その存在感を強く感じた。

そんな彼らに惜しみない拍手を送った。少し目に涙を浮かべながら…

物語の結末はああしかなかったと思うが、だからこそ悲しかった。だが、そこに微かな希望が見えた。もしかしたら100年後も変わらないのではとも思えるが、だからと言って希望を見失ってはいけない。こんな世の中だけど、生まれてもいいことはあまりないかもしれないけど、だったら、仲間と共に希望を作っていってほしい。今の世代の身勝手かもしれないが、そう思う。そう思いながら、ハンスが迎えるマフムードとノラとの間の子どもの誕生の姿を想像してみた。

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まほろば

2012-04-18 23:34:24 | 芝居に魅せられる
先週の木曜日、新国立劇場の舞台『まほろば』を観た。

ところは九州の田舎町。祭りの日に男たちは神輿を担ぐために家を出払っている。そして、その家には留守を守る女たち。
そこに、東京で一人暮らしをする40代の娘が帰ってきて、物語が動いていく。

登場人物は10代から70代までの6人の女性。それぞれの世代を凝縮したのかな…と思えるような、それぞれのキャラクターだった。

「祭り」が象徴する、男系社会や旧来的な考え方に対し、彼女たちは見えない糸で柔らかく、それでいてしっかりと縛られている…という重苦しさがどこか漂うように感じられた。それは、時に掛け合いのようなせりふ回しによる小気味良さと、そのせりふに込められた「毒」のようなものが放つ空気もあってのことだったと思う。

それは、子どもを産むか産まないかという選択に凝縮される。妻子ある男の子を宿した姪に対し「産むべきだ」と言う彼女は、「閉経だ」と思っていたのが実は自分も妊娠していたと知ると「産みたくない」という。娘に対し女手一つで子どもを育てる苦労を説く彼女の妹自身も、親のわからない娘を産み育ててきた。そんな彼女の言葉を受けた娘の気持ちを思うと、辛い。

そういう僕も、子どもが欲しかった。いや、今でも欲しいが、もうそろそろ諦める歳になってしまった。「子どもが欲しい」という言葉は自然な気持ちから出るものだと思うが、女性にとっては時に辛い言葉になる。飛び交うせりふの先に、先日観た映画『KOTOKO』の子育てに苦しむ主人公が重なった。

Wikipediaによると、「まほろば」とは「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語だそうだ。男たちにとっては、祭りに興じ、その後酒を煽り楽しむその場所はまさにそうした所なのだろうが、一方、女性にとっての「まほろば」はどこにあるのだろうか。

まあ、そんな難しく考えずに、ざっくばらんにそんな話ができたらいい。子どもを欲しくない人に無理強いすることもないけれど、子どもが欲しい人には授かってほしい。それくらいなら、無言の圧力にはならないだろうと思う。何だか舞台の感想という感じではないけれど、まあ、ざっくばらんに…
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『パーマ屋スミレ』に想う

2012-03-10 22:32:47 | 芝居に魅せられる
先日、何かのセリフがふと頭をよぎった。それが何のセリフかすぐに思い出せなかったが、昨夜思い出した。

昨夜は久しぶりに新国立劇場に演劇『パーマ屋スミレ』を観に行った。昨年11月に『天守物語』を観て以来だから、4か月ぶりとなる。そして、昨年観た『焼肉ドラゴン』に続く鄭義信さんによる作品だ。

舞台は1965年の九州。有明海を望む「アリラン峠」と呼ばれる場所にある炭鉱労働者の住む長屋街にある一軒の床屋さん。その店を切り盛りする須美(南果歩さん)とその夫で炭鉱労働者の成勲(松重豊さん)を中心に物語は展開される。



祭りの夜、炭鉱で炭塵爆発が発生し、仲間を助けようと坑内に向かった成勲たちはCO(一酸化炭素)中毒に罹ってしまう。耳鳴りや頭痛に悩まされ、不本意に家族に手を上げてしまうことも。働くこともままならず、また十分な補償も得られない中、次第に追い込まれていく彼らに、国のエネルギー政策の変換が追い打ちをかけていく。

彼らの多くがやがてこの地を去って行った。成勲の弟英勲は、社会主義の理想郷を求めて北朝鮮に渡り、須美の姉初美(根岸季衣さん)と息子の大吉、そして内縁の夫茂之は職を求め関西に向かった。だが、須美と成勲はこの地に残った。

実はそこに理想郷などないことを知りつつ北に旅立とうとする弟を、力ずくで止めようとした成勲の表情が哀しかった。結局弟を止めることができなかった彼の哀しみは、きっと死ぬまで消えなかったのだろう。松重豊さんは『ちりとてちん』の不器用なお父ちゃん役が印象的だったが、今回の役も心に深く残る力演、名演だった。

賑やかだった店の中に須美と成勲が2人だけで語らうシーンに涙が溢れた。大吉が語る彼らのその後に追い打ちをかけられた。いつもながら、一人で良かったと思う。だが、本当は内容について誰かと語り合いたい。

タイトルの『パーマ屋スミレ』は舞台上に実在しなかった。冒頭と終盤、「いつかはパーマ屋をやりたい」という須美のセリフの中で、その店名として語られるのみだ。前日の夕刊に掲載されていた劇評に、それが「在日コリアンの実現しなかった希望を象徴する」と書かれていて、ハッとした。

大人になった大吉(酒向芳さん)がストーリーテラーとなり、トタン屋根の上などで語る姿は、『焼肉ドラゴン』の時生に重なる。時生は亡くなってしまったのに対し、大吉はその後の日本を在日コリアンとして生きてきた。その彼の語る言葉には、重みと共にファンタジーを強く感じた。

そういえば、僕がまだ子どもの頃は北海道や九州に炭鉱があった。坑内で大規模な火災が発生し、まだ人がいるのに水を注入しなければならないといったニュースを恐る恐る聞いていた。その後、閉山に伴う争議なども微かに記憶に残っている。



炭鉱の全盛期には、地域に映画館などが建つなど大いに賑わったということを後に聞いたことがある。その栄枯盛衰の底辺には、多くの炭鉱労働者の苦労が、そして犠牲となった命があったということを、この舞台を観て改めて感じた。九州といえば、熊本南部の水俣で発生した水俣病を思い出すが、同じように市井の人々に苦労や犠牲を強いるものだったのだ。

現在進行形の原発事故の災禍のイメージが重なる。沖縄の米軍基地も。この国は、何かの犠牲の上に繁栄の幻想を見ているようだ。世界一豊かだと言われた一瞬、僕らは幸せを感じられただろうか。だから、「復興」はそうした今までの形を変えていくものにしたいと思う。

ふと思い出したセリフは『焼肉ドラゴン』のものだった。感想を書いた記事をもう一度読み返した。その日から20日余り後に、あの地震が起きた。そして、明日はそれから1年後となる。

改めて、あのセリフを文字にしてみようと思う。

えぇ春の宵や… えぇ心持や…
こんな日は 明日が信じられる
たとえ昨日がどんなでも
明日は きっとえぇ日になる

どんなに辛いことがあったとしても、同じ時を生きる人たちにとって明日がきっとえぇ日になりますように…
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イロアセル

2011-10-30 22:50:56 | 芝居に魅せられる
金曜の夜、新国立劇場の舞台「イロアセル」を観た。

シリーズ「美×劇」のうち、前作の「朱雀家の滅亡」は三島由紀夫の作品でその重厚さが魅力だった。また次作「天守物語」は泉鏡花の作品で、篠井英介さんが主演ということもあり妖艶な美しさを期待する。一方「イロアセル」は3作中1作のみの書き下ろし作品で、藤井隆さんが主演をされるという点でも興味深かった。

その島では人々が発する言葉に色が付いていて、その色によって誰が発言したのかがわかってしまう。だから、人々は本音を語らずに生きてきた。だが、ある日島の外れの丘に囚人と看守がやって来て、そこでは言葉は無色透明だった。そして…



「言葉に色が付く」という設定を最初は呑み込めないでいた。だが、「言いたいことが言えない」ということを表現するための設定だとわかると、その後は芝居にのめり込んでいった。もともと役者としての藤井隆さんが好きだったので、それだけでも楽しみであったが、真面目さと滑稽さが入り混じる彼のキャラクターが活きる役だった。

そう、発する言葉もそうだが、例えばメールを送る時など、綴る言葉を選ぶのに一苦労することがある。相手のことを思って選んだつもりが逆に相手の心を傷つけたり、また僕自身が傷ついたり… 面と向かって本音で話ができたらと思う時もあるが、そんな機会はありそうで、実はそんなにはない。そうした機会を作るために言葉を選ぼうとするが、近いはずの人なのになんでだろうと思うとその気持ちは萎えてしまう。



もしかしたら、僕は自分が作った殻に閉じこもっていることが理由なのかもしれない。相手には、僕が作る殻が見えるのだろうか。屈託のない笑顔でバカ話ができるような、そんな付き合いができたら…

芝居の話から逸れてしまったが、そんな気持ちにさせてくれるのも芝居の楽しみだと、改めて感じた。

そうそう、「温泉に行こう」で活躍した加藤貴子さんが芯の強い女性を熱演していた。確か僕よりちょっと年下だったと思うが、可愛らしさは相変わらずだったな。
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朱雀家の滅亡

2011-09-30 23:52:58 | 芝居に魅せられる
今夜は新国立劇場の舞台『朱雀家の滅亡』を観に行った。三島由紀夫の本を劇場の芸術監督である宮田慶子さんが演出された。観たいと思った理由は、何よりも國村隼さんが出られるということだった。

舞台は戦中から戦後にかけての日本。國村さん演じる天皇家に仕える朱雀経隆とその家族の生き方が描かれている。幕が開いてしばらくして、モーニング姿の國村さんが背筋を伸ばして現れると、場の雰囲気が一層引き締まった。そして、三島の文体がそうなのだろう、美しい言葉によって編まれたセリフがその雰囲気をさらに強めた。



主人公経隆は天皇への忠誠と朱雀家の栄光と繁栄を頑なに守り、その頑なさが物語の大半に貫かれている。頑なな経隆をダンディな國村さんが演じるのだから、その頑なさがことさら強調される。だが、観ているうちにそのストイックな考え方が滑稽に思えてきた。静謐な芝居に対し失礼かと思ったが、そこに三島由紀夫という作家の力が現れているのだろうかと考えてみた。

三島由紀夫といえば、割腹自殺で世を去ったことをはじめ、何となく「右寄りの人」という感じで敬遠していた。だが、この舞台を観て、今更ながら彼の作品に触れてみたいと思った。

ところで、後継ぎがいないという意味では僕は滅んでいくのだな…と、改めて考えていた。プライドをかなぐり捨てて生に執着するか。それともこのまま滅んでいくのか。僕には後者の道しかないのだろうか。

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雨のあとに

2011-06-26 22:47:52 | 芝居に魅せられる

いろいろ書きたいことが溜まっているが、時の流れに従い古い順から追っていくのがいいのだろうか。いや、既に時の流れから外れてしまっているので、思い立った順でいいのかもしれない。

 

先日、新国立劇場で観た舞台『雨』のことを書こうと思っているうちに、既に次の作品『おどくみ』の上演が始まった。こちらは78日に観に行く予定で、小野武彦さん(鹿浜橋高校の校長!)も出演される。

 

先月観た『鳥瞰図』と、『おどくみ』と3作品のセット券を購入した。中でもこの作品をもっとも楽しみにしていたのは、以前この劇場の演劇部門芸術監督も務め、様々な作品の演出を手掛ける栗山民也さんが、原作の井上ひさしさん直々に指名を受け演出を担ったということと、市川亀治郎さんと永作博美さんを中心としたキャストが魅力的だったことが理由だろうか。

 

 

劇場入口から正面に伸びる階段を上がりきると、紅花が迎えてくれた。この芝居の舞台は、山形の紅花問屋となっている。開演まで時間があったので、ロビーで「ビオッジャ」という名前のスイーツをいただいた。イタリア語で「雨」というそのスイーツは、山形の「つや姫」というお米のムースに、ラ・フランスのムースが重なり、さらにさくらんぼがあしらわれた、大人の味わいだった。

 

普段見慣れた小劇場に比べ、中劇場はいささか大きすぎるように感じる。今年初めに観た『わが町』でもそんな印象を受けたが、今回は席が前から3列目だったことと、大胆なセットのおかげで距離を感じなかった。賑やかな歌と踊りで幕を開けた芝居は、軽妙さを前面に出しながら進んでいく。

亀治郎さん演じる江戸で屑鉄拾いをして生計を立てる徳という男が、「行方知らずとなった山形の紅花問屋の主人に似ている」という言葉に動かされ、山形や平畠という地に向かう。

思ったよりも簡単に紅花主人の喜左衛門になりすまし、永作さん演じる器量良しの妻、おたかと仲睦まじく暮らし始める。多少の疑問を持たなくはなかったろうが、自分自身も喜左衛門になり済まそうと紅花栽培に関する勉強を重ねたりと努力をしていたこともあり、自分の芯の部分にある徳を消し去った。

だが、徳の過去を知る昔の仲間が登場したり、彼が喜左衛門ではないと強く疑う者があらわれ、彼の存在を脅かすが、一線を越えながら切り抜けた。そして、ようやく自分が喜左衛門であると確信できるかと思った時に、全てがひっくり返ってしまう。

 

井上さんの作品を観たことはほとんどないが、その世界の面白さに魅せられた。そして、亀治郎さんのテンポの良さと永作さんの柔らかさ、さらに、脇を固める役者さんたちの魅力を存分に引き出した栗山民也さんの演出に魅せられ、満足して劇場を後にした。出口では、旅行のパンフレットと共に、山形産のラスクをいただいた。

 

 

昔も今も、地方が表立って中央の国に抗うことは難しい。だが、井上さんが描いた平畠の人々はたくましく、そしてしなやかにそれを実行した。東日本大震災を受けた東北からも声が上がっているが、表向きはその力は強く感じられない。「怒れ!」という人もいるようだが、それほど単純ではない。いや、もしかしたら僕らに見えないだけで、あれほどの被害を受けても彼らはしなやかに、したたかに歩き始めているのかもしれない。おっとりとした東北弁を操るおたかの、そのやわらかなしぐさを、東北の人たちが一日も早く取り戻すことを祈る。

 

 

そうそう、幕間の日本酒「樽平」は、ワイングラスに注がれ、さくらんぼが添えられていた。すっきりした味わいがさわやかだった。だが、行列を追ってしまったため幕が上がる時間が迫り、慌てて飲み干したら酔っぱらってしまった。今度酒屋で見つけたらリベンジしよう。

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明日は きっとえぇ日

2011-02-19 22:15:52 | 芝居に魅せられる

昨夜の夕方はオペラシティの53階にあるカフェで紅茶とケーキを楽しんでいた。
開場までの時間をここでゆっくり待っていればいいと思っていた。
ある程度の広さがある店内に、お客さんは僕以外に老夫婦が一組だけだった。

それなのに、僕のすぐ脇に次のお客さんがやってきて、静かに過ごしてくれるのなら良かったのだが、結婚式の打合せを始めた。
自分がひとり者だから見、何となく僻んでいたのかもしれないが、イライラしてしまったが、とりあえずヘッドフォンステレオに逃げた。

夜の帳も下り、遠くに見える月を合図にカフェを後にした。

新国立劇場に向かう間、イルミネーションに見入っていたら、親子連れも同じように見入っていた。
小さな女の子は姪と同じくらいだろうか。何にでも好奇心を持っている。

親子連れは初台の街に帰って行き、僕は劇場のエントランスに向かった。そこでは、豪華な花が迎えてくれた。



数分待った後に受付を済ませ劇場に向かうと、「焼肉龍」と彫られた看板が飾られていた。芝居のタイトルは『焼肉ドラゴン』



左下にエピソードが書かれていた。確か、主演の申哲振さんと親交のある著名な彫刻家の方が、この芝居を観て感激して作られた…ということだっただろうか。

劇場内では既に酒盛りが始まっていた。そして、そのまま芝居が始まった。
テレビ放映を観ていて内容がわかっていたからか、息子の時生がトタン屋根の上で語り始めただけで涙が溢れて来た。
内容がわかっていたからそれが多少邪魔することはあったものの、徐々に心を掴まれた。



幕間を迎え、ロビーでマッコリと韓国海苔を味わった。癖のある味だったが、思っていたよりもすんなり味わうことができた。
すると、太鼓とアコーディオンの音が流れてきた。



幕間に休憩が取れず大丈夫なのかと思うが、彼らは楽しそうだった。

小学校6年生の時、友人が引っ越していき、その家に遊びに行った。その後、クラスメイトが彼のことを「ちょーせんじん」と言っていた。
その時は、それがどんな意味なのかはわからなかったが、その言葉に嫌な感じを覚えた。
その後、日本と朝鮮半島との関係を学んでいったが、テレビのグルメ紀行番組で韓国の人が優しく接してくれているのを見て、不思議に思ったりもした。その時は「在日」と呼ばれる人たちのことはあまりわかっていなかったが、その後、「ちょーせんじん」という言葉の意味を知った。在日の人の生活について知ったのは、映画『パッチギ』でだったと思う。ただ、それがどれほどリアルなものなのかはわからないが。

悪辣な環境でも、必死に生きてきた土地を離れ、そして家族が別れていくラストシーンに向かって行くにつれ、涙が止めどなく流れてきた。
お母さんをのせたリヤカーをお父さんが力いっぱい引いて去っていくラストの後、周りの人たちにつられてではあるが、スタンディングオベーションで熱演を讃えた。

真っ赤な目を誰かに見られるのが恥ずかしいから、まっすぐ帰ろうと思った。だが、帰り際に劇場ロビーで見かけたセットの模型を思い出したら、焼肉でなくても何だか煙を浴びたくなり、新宿の思い出横丁に寄った。



キティちゃんの赤いエプロンを着たかわいい女の子に誘われ選んだ店だったが、芋焼酎のお湯割りと煮込み、そしてやきとんに癒された。
彼女は中国から来た娘だろうか。笑顔がかわいかった。


気になるセリフがあった。今朝、録画してあった3年前の舞台の放映を見て確かめた。

トタン屋根に登った息子の所に父が向かう。桜の花びらが散り、錆びついたトタン屋根を染める。
その光景を眺めながら、父は語った。

えぇ春の宵や… えぇ心持や…
こんな日は 明日が信じられる
たとえ昨日がどんなでも
明日は きっとえぇ日になる

今、同じ空の下に住む全ての人の明日が、きっとえぇ日になりますように…

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開演前

2010-09-19 12:54:59 | 芝居に魅せられる
駅を出てすぐに劇場に入れることを忘れていて、少し早く着きそうになり、寄り道をした。とはいえほんの10分ばかりだが。

今日は幕間の休憩時間がある。ついついビールを飲んでしまうが、いいだろう。

さあ、間もなく開演だ。席に着くとしよう。
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