昨日、新国立劇場の舞台
『たとえば野に咲く花のように』を観に行った。
この劇場を訪れるのは、3年前の
『象』以来だ。
この間、劇場のホームページをチェックしていたけど、強く「観たい」と思う作品がなかったからなのだろう。いや、もしかしたら演劇に関する興味が薄まってしまったのだろうか…
そんな中、この作品を観たいと思ったのは、脚本を書かれた鄭義信(チョン ウイシン)さんによる
『焼肉ドラゴン』と
『パーマ屋スミレ』を観ていて、この2作とともに、後に「鄭義信三部作」と呼ばれることとなるその第一作であるこの作品を、生で観たいと思ったからというのと、若手女優の中で好きな村川絵梨さんが出演されるのを知ったからだ。
実はこの作品をテレビ中継(録画)では観ている。ただ、その時は「いい作品だなあ」くらいにしか感じなかった。でも、同じくテレビで観た『焼肉ドラゴン』は再演が決まるとすぐにチケットを確保して
観に行った。そして、その時の感動が忘れられないうちに『パーマ屋スミレ』を
観て、心を震わせた。
一時期は連続して観に来たこともあった劇場に入るとまず「帰ってきた」という感じがした。幕間に楽しんだホワイエでのお酒だけど、この日は幕間の休憩がないので、そのまま客席へと向かった。
目の前には既に観た2作品と同様に、昭和を感じさせるセットがあった。BGMが流れる中、静かに始まる。そう、この感じが好きだったんだよなと思いながら、舞台に見入った。
1951年夏の九州F県にあるとある港町のダンスホール。そこに生きる女性3人と、彼女たちを愛する男たちが、時代に翻弄されつつも逞しく生きていく姿が綴られていく。戦争で奪われた愛する男性を想い続けながらも、日々の暮らしのために働く主人公・満喜。そんな彼女を愛し求める 康雄。許嫁の康雄に離れられ、彼を憎みながらも愛し続ける あかね。康雄を兄と慕いつつもあかねに思いを寄せる 直也。4人の男女の結ばれない愛が、戦争の影が色濃く残る中、その傷も癒えぬ中で起きた朝鮮戦争、そして、その時代を自らが引き裂かれるような思いで受け止める在日朝鮮人という存在とともに、深く描かれていく。
朝鮮戦争での米軍上陸作戦の露払いのために、極秘で機雷掃海の任務に向かう海上保安官が登場するシーンに、安保法制施行により自衛隊が米軍の下請けを担わされるだろうということが連想され、「これは今の日本を映し出しているのかも…」と思った。パンフレットに掲載された鄭さんと演出の鈴木裕美さんとの対談での、鈴木さんの「9年前より、戯曲をリアルに感じられる部分がたくさんあります」という言葉にも現れていた。
イラク戦争などはあったけど、日本が戦争に近づいていくというのは9年前にはリアルには感じられなかった。そして、これほど急激に戦争に近づいて行くなんて思いもよらなかった。
そして、9年前といえば金大中大統領時代の日韓友好ムードがまだ残っていて、現在の「嫌中・嫌韓」というのは異端・極論として扱われていたと思う。その後、双方が相手を憎むようになったのは、それぞれの市民からというより、それを利用しようとした政治家に乗せられたからなのだろう。
あかねが愛する人を奪った満喜に対し、朝鮮人だと罵る場面はあったけど、それが決定的に彼らの「愛」を阻むものではなかったと思う。いや、その愛を阻んでいたのは、戦争と、そして戦前から続く日本と朝鮮との関係だったということなのだろう。だからなのか、他の2作ほど「在日」ということを強く感じることがなく、4人の、そして彼らを囲む人たちの「愛」の物語だと思った。
けれども、自分たちの苦労を50年後の在日朝鮮人はきっと「小さなこと」と思うだろうと希望を込めて語る満喜の台詞に、少し、後ろめたさを感じた。
最後の幕で、満喜をはじめ3人が大きなお腹を抱え、これからの旅立ちを前に仲間と共にお茶を飲む。満喜が蓄音機にレコードを乗せて回し始める。流れてくる曲は
『虹の彼方へ』。彼女はその彼方に素敵な場所などないとわかっていながらも、生まれてくる子どものためにその場所を願ったのかもしれない。そして、そのシーンに涙で目が潤んだ。
日韓関係が好転することを願わない訳ではないけど、この舞台を観て強く思ったのは、人を愛することがどんなに素敵なのかということだ。そして、劇場を出て新宿へと向かう交差点で、諦めかけた人を思いながら夜空を見上げた。