あしたはきっといい日

楽しかったこと、気になったことをつれづれに書いていきます。

進もう

2023-04-02 21:00:07 | 前に進む

1月末に今年初めての記事をアップして以降、ここに新しい記事をアップすることをサボっていた。そもそも1月末まで書けなかったことをどうかと思うものの、振り返ってみるとその直後に厄介ごとに巻き込まれ、仕事にも影響が出てしまっていた。

ただ、そんな中でも動画はアップし続けて、今年に入ってから16本の動画をアップした。

Kozy is Walking

初期はBGMを入れていたけど、その後は録画した現場の音をそのまま使っている。著作権のことを気にしてというのが理由だけど、これはこれでいいんじゃないかなって思っている。そして、当初から拘っているのは字幕だ。動画だけで表現すべきなのだろうけど、文字にして伝えたいという思いが強いのかな。だったらここでも書いたらと言われるかも…だけど、動画の字幕に拘っているからこちらが疎かになってしまっていると言ったら言い訳だね。

老後の趣味の予習にと始めたけれど、視聴数はだいたい一桁。それでも視ていただけることがありがたいし、何よりも表現手段の一つとしてとても面白い。

このブログを始めたときにも、文章を書く力を身に着けたいといった理由があった。その成果があったかどうかは別として、言葉を紡いでいくことが楽しいと思えた。動画は続けるとして、このブログもまた書き続けたい。時に動画の紹介でもいいかもしれないし、動画では表現できないことをこちらでというのが理想的なのかな。

さて、次の記事はいつアップすることができるかと、自分自身に問うてみる。

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ようやく

2023-01-30 21:47:01 | 見上げる

2023年ももう1ヵ月が過ぎようとしている。その間、仕事であくせくしていたのもあるけど、一方で動画を何本かアップしたりして、まあ、足りなさを感じつつも何とか息継ぎしながら日々を過ごしている。

改めて、そして今さらながら「新年の抱負」について考えてみる。人生も中盤を過ぎて追い込みをかけなければ…などと思うことはないけど、着陸態勢に向けて健康づくりは考えないといけないかな。最近たまに聞く「フレイル予防」とかも含めて。

そう、人生でやり残したことはいくつもある。だけど、それを全て済ませるにはもう時間が足りないだろう。ここ数年、諦めることの必要性を感じるようになってきた。諦めて浮いた時間をやりたいことに充てるだけの気力が残っているうちは。

さて、新年の抱負としてまず思うのは、動画配信100本目を達成したい。ほんの数人でも視てくれる人がいるのはありがたい。人数に関係なく、続けることが大事なんだと思いながら続けていきたい。

それ以外は、血圧だったり体重だったりの目標達成だろうな。

まあ、のんびりと過ごしていけたらって思うけど、それが一番難しそうだな。

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2022年って

2022-12-31 21:34:23 | 立ち止まる

2022年も今日で終わりということで、この一年をざっくりと振り返ってみる。

現役の労働者ということで、働く環境について触れないのも不自然だけど、正直あまり触れたくはないので、ここはざっくりし過ぎなくらいで。年を追うごとに忙しくなるのは変わらない。でも、これって働く人すべてに共通して言えることなのだろうかと思う時もある。誰かに物事をお願いする時などは枝葉末節まで気を配っておかないと、受け取られ方によっては思うような結果が得られないこともある。でも、そんな仕事ばかりでは神経が疲れてしまう。まあ、現に疲れているんだけど。「器用貧乏」という言葉を思い浮かべながら、来年は何でもかんでも引き受けないことが大事かな…って。

仕事の話を書くと愚痴ばかりになってしまうのでこれくらいにしたいけど、仕事が忙しい分プライベートの時間が十分に取れないとは思う。その上、年老いた母との暮らしは制約もあり、暮らしの面と仕事の面の双方でのストレスが溜まっていく。出掛けることでその発散をと思っても、母親から文句を言われたり、またそれが自分の行動にブレーキを掛けてしまう。まあ、何もかも制約なく自由に生きている人などほとんどいないというのはわかっているつもりだし、制約があることで自分の行動をコントロールしているとも思う。

好意を寄せる人との空間的な距離があることが、だんだんと心の距離にも感じられるようになっている。人を好きになることに不器用だったのが50を過ぎて器用になるなんて訳はないし、無理をせず、無理強いをせず、あるがままにというところかな。

さて、50を過ぎてというと、2年前から始めた動画編集は細々と続いていて、このブログに記事を書くよりも頻繁にサイトにアップした。僕自身はもっとブログに文章を書きたいと思っているけど、割ける時間は限られているので、今年は諦めよう。

と、つらつらと書いてみたけど、自分のことに立ち返ると、キラリと光る思い出はないものの、日々を噛み締めながら歩き続けられたのかな。ということで、来年のことはまた明日考えよう。

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マイ・ブロークン・マリコ

2022-10-23 19:02:10 | 映画を観る

映画『マイ・ブロークン・マリコ』を観た。

永野芽郁ちゃんが骨壺を抱えて飛び出していく予告編を映画館で観てからずっと気になっていた。封切りからしばらくたってしまっていたからか上映時間や上映回数は限られてしまっていたけど、かえって朝早い時間の方が時間を有意義に使えると思い、洗濯を済ませてから出掛けた。

映画館に着いてすぐ売店に行くと既にパンフが売り切れているという。見逃してしまうときはもちろんだけど、こういうときに「もっと早く観に来れば…」と後悔する。で、気持ちを切り替え劇場に入った。

始まってすぐ、「マリコの死」という衝撃的な報せからかなりのスピードで物語が進んでいく。それはきっと、芽郁ちゃん演じるシイノの気持ちが動いていくスピードだったんだと、いま改めて思う。マリコの遺骨を奪い抱え疾走し、最初で最後の二人旅に立つ。旅の途中で二人の時間を振り返る。子ども時代から大人になってから、そして、つい最近まで。消灯後の夜行バス、ローカル電車、路線バスと、その時間の流れは微妙に変化し、そして、その中で行ったり来たりするシイノの記憶の中の二人に、観ている僕も痛みを感じていた。

でも、その中からふと感じた。二人の分かちがたい関係を。それはまるで「一心同体」のようだと。マリコのことをウザったいと思いつつも、突然彼女が命を絶ったことはシイナ自身の痛みだった。

最後の二人旅は、二人を明日へと向かわせるものとなった。そこにいた、窪田正孝くん演じるマキオの、自らの経験を経ての穏やかさは、シイノだけでなく、観ている僕の心も温めてくれたようだ。

マリコの存在が彼女のすべてだったというシイノの孤独、そして、自らを追い込むことでしか生きていけないマリコの諦めのような感覚。それらは僕も持っているということを、映画を観終えてから強く感じた。程度の差はあるけど、程度の問題ではないというのと共に。公式サイトで監督のタナダユキさんが書いている「理不尽が押し寄せ、ついに自分を壊すことでしか生きられなくなっていったマリコ」という言葉を読み、改めて実感した。

観逃さなくてよかった。そして、もう一度二人に触れてみたい。その時には、パンフレットが増刷されていてほしい。

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ジャーナリズムについて

2022-09-23 20:25:35 | 立ち止まる

昨年購入した、TBS『報道特集』のキャスターを務める金平茂紀さんの「筑紫哲也『NEWS23』とその時代」を、この6月に読み終えていた。購入してから読み終えるまでに半年以上かかった上に、最近は動画配信の方に関心が移っていたというのもその理由にある。早く書こうと思っているうちに、金平さんが今月末をもって『報道特集』を降板されると聞き、余計にその気持ちが高まっていた。そして、その最後の最後までジャーナリストとして旧統一教会問題はじめ様々な対象に正面から向き合う姿に頼もしさを感じるとともに、氏が去った後のことを考えると不安を覚える。

筑紫哲也さんが亡くなられてからもう10年以上経つ。この間の日本社会の「劣化(と言っても過言ではないだろう)」を促した理由として、ジャーナリズムの衰退が挙げられる。筑紫さんが活躍されていた頃にも報道バラエティのような番組はあったけど、今はもう「本物(と言うべきだろう)」の報道番組は絶滅危惧種となってしまっている。話せば嘘しか出てこないような権力者の好き勝手を許し、さらにそれを支えるメディアもあった。結果として長期政権を担わせてしまった責任は一義的には有権者にある。ただ、その権力者の虚像を増幅して広め人々の投票行動に繋げたと思うと、その作為は罪深い。

と、6月はじめにこの辺まで書き終えてからしばらく手が動かなくなっている間に、その権力者が凶弾により命を奪われた。この国の知や富、そして何よりも、公正さが求められる様々な組織に修復しがたい毀損・亀裂を生じさせた罪を問われ、それについて彼が自ら語る機会が永遠に奪われたということに、強い憤りと大きな虚しさを感じた。その後、その殺人事件の動機が明らかになっていく過程でまた、報道の役割について疑念を持った。団体の名称変更についてTwitterで流れてくる情報に触れたのを思い出したけど、あの時に報道したメディアはどれくらいあったのだろうか。いや、そもそもあったのだろうか。ただ、次から次に様々な問題が起きている中である特定の問題について定点観測的に伝えること、それも、表向きには以前とは変わったとされる組織を追うことの難しさはわからなくもない。

この問題について、そして「国葬」についての報じ方の濃淡はメディアによって様々だ。生前から彼を奉っていたメディアはジャーナリズムの埒外として、この間のメディアはどのような方針を持ち、どのような立場で取り組んでいるのだろうか。力を入れる理由は、彼の死によりジャーナリズムが息を吹き返したのか、今も続く教団が関係する被害に対する贖罪の意識からなのか。一方で力が入らない理由は、取り戻すべきジャーナリズムが根絶やしにされているのか、団体関係者が意思決定に侵食しているのか…などと。一握りのメディアだけであったとしても、筑紫哲也さんが遺したジャーナリズムの魂のようなものが、か弱くも灯され続けたのだとしたら、その火を共に守りたい。

さて、金平さんの著書には『NEWS23』チームの志と、それを挫く様々な出来事、そして、危機に直面してもなお強い志を持って報道し続けた姿が描かれている。それは、ジャーナリズムのみならず、様々な組織に求められる普遍的なものなのだと、心の中で自分が所属する組織と比較した。スタッフ同士が意見を交わし、高い次元で合意点を見出そうとする。互いの強弱によって物事が決まっていくのは組織の道理と言えるかもしれないけど、組織を構成する一人ひとりが理念とそれを実現するための意志を持っていれば、意見の対立は組織にとってプラスになるのではないか。そんな、いい大人からしたら「青臭い」と言われるような気持ちを持った。

ジャーナリズムはもちろん、僕も含め一人ひとりがインプットした情報を消化し、アウトプットするということを互いに繰り返すことは、一見遠回りに見えるかもしれないけど、きっとそれこそが常道というか、そうありたいという気持ちを、筑紫哲也さんが遺し、金平茂紀さんはじめ筑紫さんとともにジャーナリズムを担った人々、そしてその意思を接いでいった人たちから受け取り、僕の心の中でも灯し続けていきたい。

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気分転換

2022-05-01 13:00:01 | 旅する

日々、心と体に生じた歪のようなものが積み重なっていく。週末に仕事の遅れを挽回しようと思うものの気持ちが乗らず、歪は解消しないばかりか余計に大きくなっていく。最近はそんなことの繰り返しだ。気持ちだけでも切り替えられたらと遠出をしようにも、年老いた母を一人家に置くのが不安でそれも叶わない。

連休初日、午後から雨が降ると知りつつも思い切って出掛けた。

動画はこちら「前橋への日帰り旅

前橋には何度か訪れたことがあるけど、いずれもどこかに行ったついでに立ち寄るくらいだった。日帰りで行ける場所を選ぶ中で、何となく選択肢を絞り込む中で行先を選んだ。行く日を決めたのもそんな感じで、あれこれ考えると連休中の他の日では出掛けられないだろうと。そう思い込むのは僕の癖というか、ある種の病気のようなものなのかなと思ったりするけど、これからもその癖と上手く付き合っていくしかない。

上野から新幹線で高崎まで行き、バスに乗り換え前橋に向かう。JRでも行けるけど、バスの車窓を楽しんでみたかった。そして、一つ目の目的地近くまで直接行けるのがいいかなと。

群馬県庁近くでバスを降り、前橋公園の緑と鳥の囀りを心地よく感じながら臨江閣に向かった。

数年前に放送されたドラマに登場した臨江閣、いつか訪ねてみたいと思っていた。一昨年の秋に軽井沢を訪れた帰りに立ち寄った時には忘れていたのか時間がなかったのか、その機会を逃していた。

建築の専門家ではないけど、造りについてよりもそのスケールの大きさに興味を持った。そして、この建物を維持管理されている街の人たちに頭が下がる。そんな気持ちでボランティアの方(?)に会釈をして建物を後にした。

家からでも少し足を伸ばせば川沿いを散策することは出来るけど、たまには違う景色を眺めたい。訪れる前に地図で確認した川沿いの散策路に向かった。

水の流れる音、風に揺れる木々の騒めき。無心にはなれなかったけど、気持ちは歩く方向と同じく前へと向かっている、向かうことができていることを実感しながら。

少し変わった魅力的な橋を見られただけでも、来てよかったと思えた。

そんな気持ちとともに川沿いを歩き続け、前橋文学館に辿り着いた。

こういう施設があることは事前に確認していたけど、文学への興味が薄いこともあり立ち寄る予定をしていなかった。まあ、散歩のような気ままな旅に予定などあってないようなものだけど。で、中に入ってみた。

当日は、詩人の岸田将幸さん、そして漫画家・イラストレーターの雨月衣さんの企画展が開催されていた。

お二人のことはここに来て初めて知った。知らないから立ち寄らないという選択肢もあったけど、気ままな旅だからこそ、立ち寄ってみよう。

岸田将幸さんは僕より一回りほど若い方だけど、彼のプロフィールを読み、そして彼が綴った言葉に触れ、より深くその言葉に触れ、噛み締めてみたいと思った。僕も随分と前、言葉で伝える仕事に携わったのをきっかけにその力や使い方を間違えた時の恐ろしさについて考え始めた。今もまだ言葉を駆使するところまでは行かないし、そんなところに辿り着くことは出来ないだろうと思うけど。

雨月衣さんは、かつて放送されていた『伊東家の食卓』でイラストを担当されていたという。その番組をかつて何度か視た程度の僕の記憶には残っていないのも当然だと開き直る訳ではないけど、そのキュートなイラストはどこかで見たことがあるような…と思えるものだった。

岸田将幸さんの企画展図録を購入し、館を後にする頃には小雨が降ってきた。

アーケードの商店街にあるお蕎麦屋さんで昼食を取り、中央前橋駅まで歩いて上毛電鉄線に乗った。

はじめは桐生まで乗って、再び前橋に戻るかまたは桐生から東武線で帰ろうかとも思っていたけど、帰りの時間を考えてほんの少し乗ってみることにした。そう思って地図で調べて「行ってみたい」と思える場所も見つけていたので。

二つ先の三俣駅から歩いて向かったのは、ハイノート前橋店。地方都市にこんな大きな文具店があるということに興味を持ち、訪ねてみたいと思った。雨は激しさを増していたけど、それでも興味の方が勝った。

店内に入ると、品数の豊富さに驚くとともに、各コーナーに添えられた店員さん手作りのPOPに興味をひかれた。どんな仕事でも本質的に楽しさを持ち合わせているものだと思うけど、これらのバナーを見ながら、店員さんたちの商品に対する愛情や、仕事をしている上での愉しみなどが感じられ、店内を歩いているだけでワクワクした。

もともと仕事で使うためのノートでも買っていこうかくらいは思っていたけど、こちらのディスプレイ・POPに惹かれて榛名山の方を購入した。どんなシチュエーションで使うか、今から楽しみだ。

お会計の時に店員さんに感想を伝えたら話が弾んだ。来てよかったなと思えたし、それこそ、充実した旅になった。

群馬に来たらいつか「朝鮮飯店」か「登利平」で食事をしたいと思っていて、「登利平」はお弁当を買って食べたことはあるものの、未だに、そして今回もそれは叶えられなかった。それはまた次の愉しみに取っておくとして、高崎駅で「鶏めし弁当」を購入した。売店のおばさんに「鶏めし弁当美味しいよねえ」と声を掛けられ、頷きながら急ぎ売店を後にして、高崎線のグリーン車に乗り込んだ。往きにほとんど読み進められなかった本をゆっくり読もうと思っていたけど、雨に濡れても窓の外が気になり結局往きと同じくらいしか読み進められなかった。もちろん、美味しい鶏めし弁当のせいもある(いい意味で)。

そんなに遠い場所でもないし、車でも来られるからと思っているとなかなか来られないものだけど、夏か秋にまた訪ねてみよう。次は雨ではなく晴れた日に。

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カムカムエヴリバディ

2022-04-10 20:20:43 | ドラマにハマる

ときどき「楽しんでいるドラマの途中で命を落としたら…」と考えることがある。「あと少し待ってくれ」と神様か閻魔様(後者は聞き入れてもらえないかな…)に相談の余地があるのか、実はあちらの世界にも配信されているのかなどと思いながら。

連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』が最終回を迎えた。

『ちりとてちん』の藤本有紀さんが再び朝ドラの脚本を担当されるという報せに喜び、呟いたことを思い出す。

『ちりとてちん』や『平清盛』、『ちかえもん』などで藤本さんが描かれた世界を堪能し虜になった人たち、そこには僕も含まれるけど、1年以上先の放送開始が待ち遠しく、そして楽しみになった。

いつか二度目の連続テレビ小説を書かせていただく機会に恵まれたなら…」と書き出された藤本さんの言葉を読んだだけで涙が溢れてきた。確か、仕事帰りの電車の中だっただろうか。どんな思いで作品を書かれているかを知る機会はそんなにある訳ではなく、こうした記事をアップしてくれるのも嬉しい。

ところで、藤本さんの作品に対しよく使われる「伏線回収」について、その言葉を使ったり展開を先読みしたりするのはどうなんだろうと、途中から思っていた。そういう僕も「回転焼大月」の店内に貼られた棗黍之丞シリーズ『妖術七変化 隠れ里の決闘』のポスターがいつ剝がされて…と思っていたんだけど。

きっと藤本有紀さんは、あらかじめ物語全体の構成を作り上げ、そこに登場人物やエピソードをはめ込んでいくような作り方をされるのかなと。『ちりとてちん』の「お母ちゃんみたいになりたくない」からの「お母ちゃんみたいになりたい」、そして『平清盛』の「平清盛なくして、武士の世は来なかった」を思い出すとそう思う。だから、安子に対するるいの「I hate you」が、いつか「I love you」に変わっていくのだろうと。それは多くの人がそう思っていたようだけど。ただ、そうした読みが当たるか当たらないかに関心が行くのには違和感を感じていた。藤本さんの作品の魅力は、そこに向けてどのようなエピソードを重ねていくかにあるのだと思っていたから。たくさんの涙と笑いとともに、それを存分に感じた。

この作品の魅力を語りだしたらきっと5カ月…はかからないだろうけど、それなりの時間は必要だ。ただ、できればこの約5カ月を共に(空間ではなく、時間を)した人と語り合えたらきっと楽しいだろう。

様々なエピソードが詰まった最終週から、僕が気になったものを書き留めたい。

るいと安子の再会で盛り上がった111話。ステージ上で『On the Sunny Side of the Street』を歌うるいが、ひなたに背負われてアニー…安子が会場に到着したときに声が出なくなるものの、再び歌い出し、そして安子のもとに駆け寄った。すぐに駆け寄らなかったのはなぜだろうと思い、その歌詞について調べてみた。それは、安子と別れて以降のるい自身の気持ち、そして、別れる前の貧しいながらも楽しい暮らしに重なる。るいはそれを安子に伝えたかったから、敢えて再び歌い出したのだろう。

そして、最終回の最後の最後、ラジオの英会話番組で共演するウィリアムが鍵を落としたその時、彼がいつかの初恋の相手だったことを思い出したひなた。そのキーホルダーに対するコメントをTwitterなどで目にしたけど、僕はその時、子ども時代のひなたがビリーに伝えられなかった「Why don't you come over to my place?」を淀みなく伝えられたことが心に刺さった。

70話でその言葉を伝えられなかったひなたが回転焼に八つ当たりして家を飛び出したあと、河原に座り込むひなたのもとにやってきたるいが「お母ちゃん、見参!」と現れ、ひなたの心を癒す。この感想を書きながらその回を視返して、また涙を溢れさせた。

そんな気持ちにさせてくれたのは、ひなたの成長に影響を与えた伴虚無蔵の存在がある。彼の「日々鍛錬し、いつ来るともわからぬ機会に備えよ」という言葉が彼女に英語の鍛錬を続けさせ、思いもよらない場所に連れて行くことになった。僕の好きな言葉「果報は練って待て」にも通じる(なかなか実践できていないけど…)。

どんな作品であっても完璧なものはないし、そもそも「完璧な作品」などないのだろう。いや、あったとしてもそれは取るに足らない作品なのかもしれない。この作品に対しても批判はあった。そういう視方、そしてそういう楽しみ方もあるのだろうとは思うけど、僕にはしっくりくるものだった。きっとそれは、今の僕の心の在り様にも関係するのかもしれないけど、それはまたおいおい。

さて、最終回を迎え多少「ロス」を憂いたものの、ロスどころかスピンオフを望む気持ちもない。描かれなかったエピソードは、描かれた場面から想像しながら、また近いうちに初回から視返してみよう。

「楽しんでいるドラマの途中で命を落としたら…」この作品では雪衣さんが楽しんでいた朝ドラの途中で天に召された。こればかりは避けられないし、それよりも、結末を知ることができないとしても作品を愉しんだことを携えて行くことは出来るだろう。そして、この作品から受け取った「後悔しない人生を」という言葉とともに生きていこう。

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かがやく

2022-01-18 22:58:36 | 見上げる

今日は朝から苛立っていた。仕事が思うように進まず、そして、新しい仕事がやってくる。いずれも自分自身に問題がないわけではなく、むしろ日頃から断ることをなるべく避けていたから、結果として自分の首を絞めることになっていたのだろう。

そんな、後味の悪い一日を終えて帰途についた。最寄り駅に着くと一人の男性が携帯電話で月の話をしていて、夜空を見上げたら月が輝いていた。

以前、好きになった人に月の写真を送ったことがある。同じ空の下にいることを実感したかったのか、今思うと何をしていたのだろうかという感じだけど、その時はその人のことばかりを考えていた。そんな、ときめくようなことも無くなって久しい。今、いいなと思う人がいない訳ではないけど、距離の遠さもあり実感に乏しい。

シャワーを浴び、明日の朝に洗濯しようかどうかとカーテンを開けるとバルコニーの床が明るく照らされていた。

あの頃のように一眼レフカメラを取り出したりはしないけど、スマートフォンカメラのモード設定を変えながら、その月の姿を写真に収めた。

今も、その先も、一緒に月を眺める人はいないだろうと思うと少し寂しいけど、折り返しをしばらく過ぎたこの人生、捨てずにしぶとく呼吸し続けよう。

 

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徒労感

2022-01-16 21:16:54 | 立ち止まる

年末から、母の体調が悪い。先週末は「いよいよか…」と思うくらいだったけど、やや持ち直した。

母を疎ましく思うことも少なくないけど、いざそうなるとあれこれ考えてしまう。心の準備ができていないということもある。ところで「心の準備」って、どんなものなのだろうか…

料理、洗濯、買い物と、先週も今週も週末は家事に多くの時間を割いた。まあ、買い物はそれ以前から週末にまとめて行くようにしている。平日は食事づくりくらいしかできないし、それでも慌ただしく、作り置きや下ごしらえをしておこうと思うんだけど、作り置きの方は「いつも同じものばかり」と文句を言われるたびに、自分はいったい何のために生きているのだろうかと考えてしまう。もっと困難な状況にいる人もいる一方、そんな苦労とは縁遠い人も少なくないだろう。まあ、その人たちはまた別の苦労がある。

仕事を持ち帰っても来たけど、結局はほとんど手を付けずに週明けを迎え、徒労感に襲われる。あの、何とも言えぬ後味の悪さを毎週感じるくらいなら、いっそのこと仕事を置いてきてしまえばいいんだけど、割り切れない。

さて、今日は食材とともに何枚もタオルを買ってきた。母のために妹がタオルストッカーを買ってくれ、壁に付けてから1ヵ月以上使っていなかった。清潔なものに取り換えなければという気持ちも後押しした。家に帰ったのはお昼過ぎ。それから洗濯して干すまでは済んだけど、冬に昼から洗濯したところで乾くまではいかない。諦めてそのまま干している。

いつその時が来るかはわからないけど、近づいていることは間違いない。本人にとってどんな人生だったのかなどと考えながら、明日は出掛ける前に洗濯をしようかどうか考えている。

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期待と、不安と

2022-01-09 23:40:27 | 立ち止まる

期待を込めて新年を迎えた人は多かっただろう。その中に僕もいた。他国の状況は気になっていたものの、自分の住む国は違うと信じ込んでいた。

正月3日目に出掛けた初詣。あまりの人の多さに驚きと不安を感じた。自分もその一人という自覚は無くはなかったけど、初詣に、そして酒場に集う人たちのこれまでの我慢を考えれば仕方ないなと思っていた。

初詣の際の動画はこちら

それから一週間も経たないうちに、件のウイルス感染者数が急激に増えていった。正月休みが短かく、すでに仕事モードに入っていたけど、新年の目出度さがスッと引いていった。それとともに再び「不安」が雨雲のように広がる。再びトンネルに入るのは間違いないだろうけど、このトンネルは長いのか、短いのか。

ウイルスによる影響が出てからもうすぐ2年。ここまでは自分の身近に感染者が出たという話を聞くこともなく過ごしてきたものの、いつどうなるかという不安もある。

でも、不安に怯えるばかりでは、誰かの思うつぼじゃないか?って、今更ながら思い始めている。感染予防は続けなければならないけど、それよりも、日々の暮らしを、そして、自分自身を大切にしていきたい。

と書きながら、ウイルスに影響された世界で生活に困窮する方々が増える中で、自分のことだけを考えることには、疑問ではなく抵抗を感じる。綺麗ごとではなく、自分に何かできることはあるのだろうかと考え、そして、敢えて期待を持って行動していこう。

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