昨日、映画
『怒り』を観た。
昨秋には原作本を読み、早く鑑賞したいと思っていたんだけど、慌ただしく過ごしているうちにロードショーも終わってしまい、諦めかけていた。そんな時、同じように諦めかけていた作品の上映が、監督を招いてのトークショー付きであると知り、ちょうどその日にこの作品の上映もあったので、それなら両方観ようと思い、映画館に向かった。
結末は知っていたけど、役者の皆さんの力によってなのか、そのことを終盤まで忘れてスクリーンに見入っていた。特に誰がというのは言い難いけど、今までにない役を演じられた宮﨑あおいさんと、想像しづらい過酷なシーンを乗り越えた広瀬すずさんには、特に役者としての意気込みを感じた。
原作を読んだ時にはあまり感じなかったけど、映画を観ていて「怒り」とは何なのだろうかという思いが生じた。なぜ人は怒るのか。そして、人は何に対して怒るのか。
子どもの頃、親は僕ら兄弟に「我慢」を強いた。その影響は大人になってからも残ったけど、ある時、もっと自分の気持ちを前に出さなければと思うような出来事があり、それ以降は早めに怒りを顔に出すようにしていた。いや、それは「怒り」ではなく「不快感」なのかもしれない。
原作にも映画にも、社会に対する「怒り」を表現する取り組みが描かれている。原作は読売新聞に連載されていたということだけど、吉田修一さんはこの怒りを絶妙な形で取り入れている。いや、その怒りと通底する、広瀬すずさんが挑んだシーンを、そして、そこにある人々の怒りを描くために必要だったのだろうと思う。もちろん、この作品を政治的に捉えるつもりはないけど。
やりきれなさが募る中、決してすっきりとはしていないけど、登場人物に微かな光が差すように見えたのは救いだった。ここにも、吉田修一さんの優しさが感じられた。
映画を観終え、僕の怒りの矛先について思った。何に対して怒りを感じるのかという自分の気持ちを見つめ、その矛先を間違えずに怒りを発していきたい。