あしたはきっといい日

楽しかったこと、気になったことをつれづれに書いていきます。

夜明けのすべて(映画)

2024-02-24 10:00:16 | 映画を観る

もうすぐ3月になるというのに、今年に入って初めての記事をようやく書いている。書きたいことがなかった訳ではないけど、書くのが億劫になっていたのかな… 動画の方は週1本に近いペースで上げているんだけど。

さて、こちらも今年に入って初めてになる映画鑑賞。一本目に選んだのは、瀬尾まいこさんの小説を上白石萌音さんと松村北斗さん主演により映画化された『夜明けのすべて』。原作を読んだのは2020年の秋で、このブログにも感想を書いた。藤沢さんが山添くんの髪を切るシーンはとても印象に残っている。いつかこの作品が映画化されるだろうとは思っていたし、それは期待とともにあった。その報せは、二人が主役という驚きと共に届けられた。そう、朝ドラ『カムカムエヴリバディ』で夫婦役を演じた二人じゃないか!って。まだドラマの余韻が心の中に残っていて(今もだけど)、嬉しさと共にその報せを受け取った。で、映画のSNSをフォローしたりして公開日を待った。

最近の映画は封切り後2週間ほどで上映館・上映回が少なくなるパターンなので、公開2週間以内に観に行こうとは思っていたけど、言い訳や別の用事などで先送りにしていた。ようやく選んだのは三連休前の木曜夜の回。ちょうど特別な上映だったので館内はほぼ満席。そして、僕のようなおじさんの姿は見られなかった。まあ、それはいいんだけど。

小説の細部までは鮮明に覚えていないものの、正直冒頭から「こんな設定だったかな?」という思いが生じた。ただ、それは違和感を伴ったものではなく、次第にスクリーンに映る物語に引き込まれていった。そして、主演の二人は当然ながら朝ドラの二人ではなく、その動き、語る言葉、纏う空気感が、疑いようなく藤沢さんと山添くんだった。それは、三宅唱監督による演出によるところだろうけど、主演に二人を選んだ時点で賞をあげたいくらいな…って、それも三宅監督への賛辞になるかな。

映像化するにあたって、その時間の長さも含めてさまざまな設定に手が加えられていたけど、そのいずれもが瀬尾さんが描く世界を「映画として伝えるためには」という気持ちからのものだったのだろうことが観る側にも伝わるものだった。そして、主演の二人に注目しがちだけど、二人が勤める会社の社長を光石研さんが演じられていたのが嬉しかった。昨年のドラマ『帰らないおじさん』でも素敵なおじさんを演じられていたけど、この人が社長さんだから二人は大丈夫って、何が大丈夫だかとは思うものの、そう思った。ちょうど翌日朝の番組で光石さんのインタビュー番組が放映されていて、改めてそう感じた。

いま、この感想を書いていて、改めて本を読んだ時の感想を読み返して、もう一度この本を読んでみたいと思った。そして、今の僕は「誰かに光を当てたり水を差したりすることができる存在」になりえているだろうか。

僕を含め、人々がより利己的になり、また周囲からも自分自身からもスピードを求められる時代になり、それは何もしなければますます加速していくだろう。そんな中、ほんの少し立ち止まり、現実と自分の想いとのギャップを、まずは噛み締めてみよう。そこからどの方向に、どれくらいの速度で歩き出すかはその人それぞれ。でも、噛み締めた時間はきっと無駄にならないと信じたい。

さて、僕はどっちに歩いていこうか…

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マイ・ブロークン・マリコ

2022-10-23 19:02:10 | 映画を観る

映画『マイ・ブロークン・マリコ』を観た。

永野芽郁ちゃんが骨壺を抱えて飛び出していく予告編を映画館で観てからずっと気になっていた。封切りからしばらくたってしまっていたからか上映時間や上映回数は限られてしまっていたけど、かえって朝早い時間の方が時間を有意義に使えると思い、洗濯を済ませてから出掛けた。

映画館に着いてすぐ売店に行くと既にパンフが売り切れているという。見逃してしまうときはもちろんだけど、こういうときに「もっと早く観に来れば…」と後悔する。で、気持ちを切り替え劇場に入った。

始まってすぐ、「マリコの死」という衝撃的な報せからかなりのスピードで物語が進んでいく。それはきっと、芽郁ちゃん演じるシイノの気持ちが動いていくスピードだったんだと、いま改めて思う。マリコの遺骨を奪い抱え疾走し、最初で最後の二人旅に立つ。旅の途中で二人の時間を振り返る。子ども時代から大人になってから、そして、つい最近まで。消灯後の夜行バス、ローカル電車、路線バスと、その時間の流れは微妙に変化し、そして、その中で行ったり来たりするシイノの記憶の中の二人に、観ている僕も痛みを感じていた。

でも、その中からふと感じた。二人の分かちがたい関係を。それはまるで「一心同体」のようだと。マリコのことをウザったいと思いつつも、突然彼女が命を絶ったことはシイナ自身の痛みだった。

最後の二人旅は、二人を明日へと向かわせるものとなった。そこにいた、窪田正孝くん演じるマキオの、自らの経験を経ての穏やかさは、シイノだけでなく、観ている僕の心も温めてくれたようだ。

マリコの存在が彼女のすべてだったというシイノの孤独、そして、自らを追い込むことでしか生きていけないマリコの諦めのような感覚。それらは僕も持っているということを、映画を観終えてから強く感じた。程度の差はあるけど、程度の問題ではないというのと共に。公式サイトで監督のタナダユキさんが書いている「理不尽が押し寄せ、ついに自分を壊すことでしか生きられなくなっていったマリコ」という言葉を読み、改めて実感した。

観逃さなくてよかった。そして、もう一度二人に触れてみたい。その時には、パンフレットが増刷されていてほしい。

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そして、バトンは渡された(映画)

2021-11-14 08:32:20 | 映画を観る

瀬尾まいこさんの『そして、バトンは渡された』が映画化されることを知り、まずは瀬尾さんの作品がまた映像化されることを嬉しく思った。そして、主人公の森宮優子を演じるのが永野芽郁さんだと知り、その嬉しさは僕のゲージ一杯(高いか低いかには触れないけど)に振り切れた。で、彼女の母親・梨花を演じるのが石原さとみさんで、僕の頭の中で梨花と石原さんがシンクロしたのを思い出す。

その情報に触れて以降、公開日がいつかと楽しみにしていた。けれども、他の多くの映画作品同様、この作品も流行り病の影響を避けられなかったのだろう。とはいえ、待ちに待った作品を観ることができた。

3年前に原作を読んで以降、あらすじは覚えていたものの、作品の詳細についての記憶が薄らいでいたことは、映画を観る上では逆に良かったのかもしれないと、観終えた後に思った。

さて、瀬尾さんの作品での愉しみは食事のシーンだと、多くの瀬尾まいこファンが思うところだけど、映画でもそれは伝わってきた。優子と田中圭さん演じる森宮が食事をとるシーンでは、単にその食事が美味しそうというだけでなく、その時のやり取りが父と娘の繋がりを緩やかだけど強いものにしているんだなと思える。そして、その時のやり取りの内容が、互いが今どんな状況なのかを掴む手段になっている。書いてしまうと当たり前のことなんだけど、自分の家庭(母とだけれど)を顧みるとそれとは程遠い。そして、こんな風に子どもと触れ合う機会がないのだと思うと、少し寂しく思う。もちろん、積極的ではないにせよそういう生き方を選んだのは自分自身だから覚悟はしているけど。

だからこそ、小説でも今回の映画でも、泉ヶ原も森宮も、梨花の思いもよらない行動とその行動力によって家族を作ることができたことを羨ましく感じた。今の僕にそんな状況が訪れたとしたらすぐに受け入れられる自信はないけど、でも、すぐに断りはしないし、実現する方法を探るだろう…な。

小説とはまた違うストーリーが用意されていたけど、どちらがいいか悪いかということではなく、それぞれが独立した作品で、それらを感じればいい。そう、映画のそれとそこに触れる台詞に、先日から読んでいるある本のことを重ねた。感想は読了したら書くけど、会えないことと別れとは違うんだろうということかな。

映画を観終えて街を歩くと、以前の賑わいがだいぶ戻ってきていた。そして、親子連れを見かけては温かな気持ちになれた。日差しの暖かさもあったけど、きっとそれだけではなかった、と思う。

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ドライブ・マイ・カー

2021-09-25 08:11:26 | 映画を観る

祝日に出掛けることはそんなにはない。買い物くらいは行くけど。たぶん、人混みが好きではないからだろう。休日とは違うのか?と問われてもすぐに答えは出てこないけど、考えた挙句に「祝うこともない」なんて言葉を反射的に発してしまうかもしれない。

そんな祝日に映画を観に出掛けた。

映画『ドライブ・マイ・カー』は、映画祭で賞を獲ったという理由ではなく、霧島れいかさんが出ているからという、自分の中ではスッキリとした理由を掲げて前売券を買っていた。上映館が少なくなっていく中、それでも日比谷の映画館では日に3回上映されていて、ソーシャルディスタンスを確保するため1席ごとの提供となっているとはいえ、この日もあと2回は満席だった。

さて、上映前に入手した情報の中で、霧島れいかさんの次に重要だと思ったのが「上映時間約3時間」だった。当然ながら催す方を心配したのに、なぜか売店で「ウーロン茶L」を注文していた。咳き込んだ時に喉を潤すためだったけど、合わせてお手洗いに行かなかったことを、上映前に多少後悔した。

物語は静かに始まり、静かに進んでいく。そんな中、この作品のタイトルにも通じる車(赤いSAAB900)の独特な、そして存在感を誇示するようなエンジン音が響く。映画を観ながらぼんやりと、僕もその車に同乗しているような感覚がしてくる。ベッドで抱き合っていた夫婦の仕事、そして、家族のことが少しずつ明らかにされていく。10数年夫婦が使い続けてきた車は、夫婦と共に時を過ごしてきた。ドアを開閉する時の軋み音も、後席に乗り込むときのシートの音も、その時を経た証に感じられた。

音。妻の名は音と言った。その声の音は優しくもあり、強く主張してくるような感じもした。霧島れいかさんをキャスティングした理由に彼女の声があったのかな… その声は、夫の心に深い傷を負わせる出来事でもまた、どこか魅力的だった。

その傷を覆い隠すように過ごしてきただろう男は、突然に妻を喪う。そしてその数年後、ある仕事に携わる中で男は再び妻と、妻の思いと向き合う。

途中、3時間ほどの上映時間が気にならなかったとは言わないけど、それよりも、その3時間のドライブは刺激的だった。家福という男が演劇に携わっていることから、映画には舞台の、そして稽古のシーンが多く登場した。そして、車の中での登場人物の会話が、意識的に演劇的な演出を施されているように感じた。そう、小津安二郎的なカット割りも、車内で撮影するという制約があるとはいえ、それをむしろ効果的に利用しているように思えた。

様々なものを失った男は、それでもなお生きていく。ラストシーンの解釈を披露するつもりはないけど、男は歩き続けていくのだろう。ふと、以前観た『トニー滝谷』を思い出した。同じく村上春樹さんの作品をベースにした映画で、イッセー尾形さんの物静かな演技が印象的だった。

僕は、失うことを恐れて手に入れることを避けていた。憧れた人はいたけど、その思いを伝えることで関係が壊れてしまうことを恐れていた。家福という男も、妻の別の姿と対峙することを避けていた。幸せだと言っていた夫婦生活を壊したくなかったのだろう。

過去の選択を悔やんだところで、その時はそれが正しいと思って選択したのだから…と、自分に言い聞かせてみるものの、心の奥ではパズルが上手く嵌っていない。不意に涙が溢れてきたのはそのせいだろうか。

 

冷房の効いた約3時間のドライブを終え夕暮れ少し前の劇場を出ると、昼間の暑さの余韻なのか、空気が生暖かく感じられた。でも、それがどこか心地よく感じられた。淋しくとも、これからも歩いていこう。

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すばらしき世界(2回目)

2021-05-09 09:51:46 | 映画を観る

映画『すばらしき世界』を再び観た。

2月に観てから、買い求めたパンフレットに収載されたシナリオを読み、また西川美和監督が原案とした佐木隆三さんの『身分帳』を読み、近いうちにまた観たいと思いつつなかなか時間が取れなかった。そうこうしているうちに上映館も上映時間も限られてきた中、下高井戸シネマで上映されることを知り、この日を選んだ。そう、4年前の1月にここで『永い言い訳』の上映と西川さんのティーチインが行われ、足を運んだ場所だ。

さて、ゴールデンウィークからここでの上映が始まり、多くの方が来られていると知り、早めに行って整理券を受け取った。今日はまだそれほどではないらしく、肩透かしにあった気もしないでもなかったけど、安氏んではある。そして、開場までの2時間余りを羽根木公園までの散歩に充てた。

映画館に戻ると、広くはないロビーに多くの人が集まっていた。コロナ禍で苦境に立つ映画館を少しでも応援できればと、トートバッグを購入した。そして、暑い中散歩してきたので「コーヒー牛乳もなか」も。館内は食事禁止とのことで、テラスに出て急いで口に入れた。かき氷ではないので頭痛には襲われなかったものの、急いで食べるものではない。

空席はあったもののそれなりに席が埋まり、この作品に対する関心の高さが窺われた。そして僕は、初見となる誰かの機会を奪わなくて済んだことに安堵した。近くの方が持っていたコロッケのにおいが途中まで気になったけど。

映画を観始めると、場面展開が速く感じられた。初見では次に何が起きるかとハラハラしながら観ていたけど、2回目なので流れは記憶に残っているからだろうか。だからと言って面白くなかった訳ではなく、初見の時には感じなかった、気付かなかったことがあって、西川さんの作品づくりの丁寧さを改めて感じた。

そのうちの2つだけ挙げさせてもらう。

風呂場で津乃田が三上の背中を洗うシーン。カメラはその背中に自分の思いを伝える津乃田の顔を捉えるものの、三上の表情は映されないし、彼の台詞もない。それを入れてしまうことで観る側の感じ方を固定しまうのを避けたかったのだろうか。背中を流す津乃田もまた三上の表情をその背中から感じるだけだ。初見の時もこのシーンで涙したけど、改めて観てこのシーンのすばらしさを感じた。

そして、職を得た三上を周囲の人たちが祝福するシーン。彼らは三上に対し、怒りを感じても我慢することを促す。我慢できなかった過去が三上を獄中に括り付けてきたことを知っていての「思いやり」の言葉だけど、続く職場でのシーンで、同僚に虐められれまた笑いものにされる仲間を思い怒りを感じる彼が取った行動は、自分の心を殺すものだったと感じた。そして、映画のラストはそれを象徴するように感じた。

確かに、周りに起こるすべての事象に首を突っ込んでいたら生き辛くて仕方ないだろう。けれどもそれが、誰かの命に係わる切迫した問題だったり、また世の中の理不尽さから来るものだったら、見過ごしてよいのだろうか。手を打つべき時に手を打つべき人が見過ごしていたからそれが起きているのではないか。

話は逸れるけど、今も続くコロナ禍についても、手を打つべき時に手を打つべき人が対応していたら、今とは違った…もちろんいい方向に…様相になっていただろう。誰かの気づきを抑え込んだりごまかしたりするのではなく、またその誰かの行動を傍観し失敗したら冷笑するのでもなく、より良い形で手を打っていくことこそ、上に立つ者の責任ではないかと。

こんな状況だからいつになるかはわからないけど、またこの作品を映画館で観たい。そしてその時は、西川美和さんのティーチインも合わせてと期待している。次の作品までにはとは思うけど、寡作な西川さんのことだからそこは大丈夫だろう。

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すばらしき世界

2021-02-21 20:00:00 | 映画を観る

映画『すばらしき世界』を観た。

西川美和監督の作品は、デビュー作『蛇イチゴ』以来毎回新作を楽しみにしている。前作『永い言い訳』から5年、果たして今回はどのように人を描かれるのだろうかと、期待が高まった。

そんな中、ネット上にある記事を見つけた。最新作の原案となる、佐木隆三さんの小説『身分帳』が復刊されるのに際し西川さんが記されたあとがきを掲載したものだった。果たして映画を観る前に読んでしまっていいのかと迷いつつ、読み始めると止まらなかった。そして、彼女がこの作品を映画化する決意表明のようなこの文を、結果として映画を観る前に読めて良かったのかなと、今は思う。

役所広司さん演じる主人公・三上正夫。少年の頃から罪を重ね、13年前に犯した殺人での服役を終え、旭川刑務所から身元引受人が待つ東京に向かう。周囲から偏見を受けつつも、時に温かな支えを受け、シャバでの暮らしが始まる。ただ、彼の優しさが気性の荒さと結びつき、その結果がまた彼を追い詰める。彼が罪を重ねた理由がそこから垣間見える。ただ、その行動に対して僕が抱いた気持ちは、果たして僕自身に正直なものだっただろうか。「三上は間違っている」とはっきりと言える人はいるのだろうか。そして、自分の中にも三上がいるのではないか…と。

僕自身、いつも間違いなく行動していると自信を持って言える訳ではない。時に間違えることもあるというか、間違えることの方が多いかもしれない。また、周囲からの意見や上からの指示に違和感を覚えつつも、それを呑み込むこともあれば、義憤にかられ口に出すこともある。自分にとっての正しさと、相手にとっての正しさは違うし、状況によってはそれにより足元をすくわれることもあるだろう。そして、どちらにしても結果が悪ければ責任を問われる。つかの間の安らぎはあっても、いつ道を外れてしまうかという不安を抱えながら過ごしている。相談できる人はいるものの、責任を負うのは僕だし、そこを丸投げできないのは、三上が生活保護に対し抱く拒絶反応と似ているのかもしれない。

中盤、長澤まさみさん演じる吉澤が、仲野大賀さん演じる津乃田にかける一言が胸に刺さった。そこにも、西川さんの思いが込められていたのだろうか… そう、物語が進むにつれ、津乃田は次第に自分の心で感じ、自分の言葉で話すようになっていく。そこにもまた、西川さんの佐木隆三さんに対する愛を感じた。気のせいでも、僕がそう思ったのは事実だ。

さて、スクリーンの中でもがきながらも自分の居場所を見つけ出そうとするする三上に、いつしか僕も希望を託そうとしていたのかもしれない。それは、彼を支える人たちも同じだったのだろうと、ラストシーンに思った。果たして僕が道を踏み外そうとしていたら、繋ぎ止めてくれる人はいるだろうか。三上にとって、そして、周囲の人たちにとって、それは「すばらしき世界」だったと思いたい。流れてくるカヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲が豊かさを感じさせるような

白竜さんとキムラ緑子さん演じる夫婦の魅力についても綴りたいけど、内容に触れすぎてしまうのは避けたいので、何よりも、観て、感じてほしい。何も感じられなかったり、つまらなく思う人がいたとしても、そこに意味がない訳でもない。感じ方は人それぞれだし、正解も誤りもない。それこそが…

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心の傷を癒すということ

2021-02-13 15:02:28 | 映画を観る

祝日の夜、今年1作目の映画鑑賞に出かけた。

心の傷を癒すということ』、昨年1月にNHKで放映されたドラマが映画作品として再編集された。ドラマもほぼリアルタイムで視て、その時に「4話じゃ短いな」と、もっと長く安和隆医師と、彼を通じてモデルになった安克昌医師の生涯に触れたいと思った。そう、安先生を演じる柄本佑さんは、同じ時期に放映された『知らなくていいコト』で同性でもその色気に圧倒されるようなカメラマンを演じていて、その対比に彼の演技の幅を感じた。

在日韓国人として育った彼が、自らの存在について悩み、その後、医学の道を選ぶ。そこで出会った生涯の師の影響もあり、精神科医となることを決めた。その選択を批判する父親に対し自らの意志を伝える様子は、今思うと自分自身の気持ちを固める意味があったのだろうか。

後に家庭を築くことになる終子との出会いも、いくつかの偶然が重なったとはいえ、別れ際にかけた言葉の強さもまた、その出会いを必然にしようとする彼の強い意志によるものだったのだろう。ところで、終子を演じた尾野真千子さんは、これまでアクの強い役の印象が強かったけど、その包み込むような優しさを演じた彼女に対しても、今までとはまた違った魅力を感じたのを思い出した。

精神科医として患者さんと真摯に向き合う安先生の姿は穏やかで、この人なら心を預けてもいいかなと思えた。後でプログラムを読むと、柄本佑さんの役作りについての記述があり、その直向さによって最後まで彼が安先生を演じきれたのだと知り、

阪神・淡路大震災で被災しながらも、家族を、そして住む場所を奪われた人々に真摯に向き合う姿に、そして、自らの生に期限が切られてしまってからも、彼を頼りにする患者さんや家族に対し温かく接する姿に、彼の強さを感じた。

安克昌さんは、妻と幼い3人の子供を残し、39年の生涯を閉じた。お子さんの成長する姿を見届けたかっただろうし、また仕事もこれからというときだっただろう。僕も、生前に安先生の存在を知っていたらと思うとともに、そして彼の不在を余計に淋しく感じた。

昨年ドラマを視た時には今の状況が想像できなかったけれども、映画を観た今は、多くの人が不安に心を痛め、傷ついている。僕も今、これまで経験したことのない様々な状況に対し試行錯誤しながら向き合う中で、少なからず心に傷を負っているという、微かな自覚がある。こんな時に話を聞いてくれる誰かがいてくれたらと思うけど、ここ数年で仲間との繋がりも自ら断ち切ってしまっていた。

「誰も、ひとりぼっちにさせへん」という台詞を、映画を観終えた後に反芻してみた。母と暮らしているとはいえ、常に孤独を感じている僕だから、だからこそ、誰かの孤独に向き合えるということもあるのかなと。そういえば、ボランティア活動をしていた時に、初めて参加する人が輪に入り難そうな雰囲気を感じ、敢えてくだけて話しかけていた。それは、僕自身がそうされたかったからなのかもしれない。実際にそうされたら嬉しかったかどうかは疑問だけど、そう思ったのは間違いない。

今、誰かと繋がる機会も限られている中で孤独の中にいる人たちが、この作品に触れてほしいと願う。そして、誰もが誰かを頼ってもいい世の中に近づけられたらいいな。

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ホテルローヤル

2020-12-06 20:26:13 | 映画を観る
映画『ホテルローヤル』を観た。

波瑠ちゃん主演で松山ケンイチさんが共演というのが観たいと思う決め手になりムビチケを購入したけど、毎度ながら買うと安心してしまい、すぐに観に行こうと思わずにいてしまい、気が付くと上映終了が迫っていて、上映時間の選択肢も限られてしまう。この作品も10日までの上映になってしまい、慌てて予定を組んで出掛けた。

原作は桜木紫乃さんの小説で、直木賞受賞作だそうだけど、「受賞作」を読む理由にしていないからか、桜木さんのこともこの作品のことも知らず、だからこそ映画の世界にどっぷり浸かることができたのかもしれない。

舞台は北海道・釧路湿原近くにあるラブホテル「ホテルローヤル」。経営者の一人娘である雅代は大学受験に失敗し、望まない形ではあるけど家業を手伝い始める。その目的のためにだけ存在するような場所に集う人たちのそれぞれの想いと、多感な時期をそんな場所で過ごした雅代の心の移ろい。そして、両親やそこで働く人々の人生に、自分の気持ちのありようをなぞっていた。僕の人生に同じようなシーンはなかったけど、それでも、どこかその気持ちが痛いほど伝わってくるようだった。

ある事件をきっかけに、ホテルローヤルと雅代の人生に変化が求められる。痛ましい事件の当事者に対し、僕は「良かったね」と思えた。人って、自分の存在を認められないことが最も辛いことだと思うから、最後にそれを認め合えたのだと思えば、彼らが選んだ結末は痛ましいけど、幸せなものになったのではないかと。

そして、松山ケンイチさん演じる「えっち屋さん」のどこまでも優しいところが、雅代の心を傷付け、それが彼女の背中を押す。そんな姿に、痛みを感じることから逃げ続け、いつまでも前に踏み出せないでいる僕の意気地なさを改めて思った。

「体を使って遊ばなきゃならない時がある」というえっち屋さんの台詞は、体を重ねることも、いや、誰かと会うことも難しい今の状況と重ねると余計に実感される。アオハルではないけど、とても辛いときに誰かとただ手を繋ぐだけでもと、そんな思いを募らせてみたものの、そうしたいと思う相手が今はいない。いや、思い浮かべた人はいるけど、もうすっかり縁遠くなってしまった…

波瑠ちゃんは『弥生、三月』に続き、素敵な役に出会い、見事に演じ切ったと思う。歳を重ね凛とした佇まいに情感を纏う彼女の更なる活躍が楽しみだ。

エンドロールに重ねられた、Leolaさんが歌う主題歌『白いページの中に』が心の奥に優しく響き、潤んだ眼を誤魔化そうと足早に劇場を後にした。

この冬休み、桜木紫乃さんの原作本を読んでみよう。
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The NET 網に囚われた男

2017-02-12 22:53:10 | 映画を観る
今年になって環境が変わったこともあり、観たかった映画を積極的に観に行こうと思っている。
ということで、一昨日は仕事帰りにキム・ギドク監督の『The NET 網に囚われた男』を観た。

キム・ギドク監督の作品を観るのは『嘆きのピエタ』以来になる。『メビウス』も『殺されたミンジュ』も観たいと思いつつ、チャンスを逃してしまった。いや、寓話的な物語は好きなのだけど。、暴力的なシーンが苦手で避けてしまったというのもあった。それでも、今回は劇場に足を運んだ。

映画は、北朝鮮に住む漁師ナム・チョルの朝の様子から始まる。小さな家での妻と娘との仲睦まじさが、夫婦が愛情を確認するシーンと共に伝わってくる。小さな船を海に出していくと、途中でエンジンに網が絡まってしまう。操縦できない船は漂流し、境界を越え韓国側の岸に辿り着いてしまう。

そこで彼は韓国の当局に北朝鮮のスパイではないかと疑われ、拷問を交えた執拗な追及を受ける。チョルの願いはただ、北朝鮮で彼を待つ妻子のところに戻ること。けれども、韓国当局の人間は「北に戻る」より「ここに残る」ことの方が彼にとって幸せだと説く。そこに悪意は全くなく、だからこそなのか、チョルの思いを汲み入れてくれることはない。

そんな中、ある出来事がきっかけでチョルは北朝鮮に戻れることとなった。帰還した彼は華々しく迎えられたものの、その後すぐに「南で何をしていたのか」と北朝鮮当局の尋問を受ける。心折れ生活のリズムが狂い出し、そして生計を立てるための漁に出ることも禁じられた彼だったが、当局の制止を振り切って海に船を出していく…


衝撃的なシーンはいくつかあったけど、比較的穏やかに、淡々と進んでいったような感じがした。けれども、妻子のところに帰りたいというチョルの強い思いが伝わってきて、何とか彼を返してあげたいという思いでスクリーンを見つめていた。物質的には韓国に住む方が豊かだというのは疑いようがないけど、それが全ての人にとって絶対的な尺度・価値観にはならない。そして、ソウルの街に放り出されたチョルの取った行動に、そうした価値観に囚われたくないという彼の恐れを感じた。

そう、韓国当局で執拗な尋問をする男の残酷さに怒りを感じたけど、それよりも、チョルに韓国への帰順(亡命)を迫れという上司の、それが絶対的に正しいと信じる姿に恐ろしさと強い憤りを感じた。

北朝鮮でチョルを厳しく尋問する男の姿には、薄っぺらさしか感じなかった。その薄っぺらさを描くシーンが出る前から、そう感じていた。薄っぺらいことが独裁者を支える力になるのかもしれないというのは、ヒトラーの残虐さを支えたアイヒマンの例を挙げるまでもないだろう。


チョルは網に囚われて北と南の体制に翻弄されたけど、果たして網に囚われているのは誰なのかと考えた。そして、日本人としてそんな状況を他人事として見てはいけないのではないかと思った。その視点を誰かに押し付ける気はないけど。

網に囚われているのは誰なのか。自分は網に囚われていないかと、時々、考えてみたい。
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沈黙 -サイレンス-

2017-02-01 23:51:43 | 映画を観る
昨夜、映画『沈黙 -サイレンス-』を観た。

この映画のことは、モキチ役で出演されている塚本晋也さんのツイートを拝見し結構前から知っていて興味はあったのだけど、年明けに視たドキュメンタリー番組によってチケット売場に誘われたのか、前売券を購入した。

いつ行こうかと思っていた先週、窪塚洋介さん、イッセー尾形さん、塚本晋也さんの舞台挨拶があると知り、事前にネットで座席を確保して当日を迎えた。

この映画は、江戸時代の長崎での苛烈なキリシタン弾圧を描いた遠藤周作さんの小説を読んだマーティン・スコセッシ監督が、長年構想を温めてようやく完成させたという。その思いが、2時間41分という長編の最初から終わりまで、隙なく紡がれていた。

「踏み絵」をはじめとしたキリシタン弾圧については、学校で習った程度のことしか知らない。15年ほど前に長崎を訪れた時、西坂の平和資料館とともに26聖人記念館を訪れ、その片鱗に触れたけど、その後、彼らについて考えることはほとんどなかった。なので、この映画によって当日の弾圧がいかに苛烈なものであったかを知ることができたといっても過言ではない。



舞台挨拶で皆さんが話されたことは、笑えるところもあったけど、いろいろ考えさせられた。そう、今この国を覆っている見えないヴェールについて窪塚さんが触れられていて、そうした思いを共有したいと思った。

映画には、モキチという敬虔なキリシタンと、キチジローという優柔不断な男が登場する。対照的な彼らの姿を観ながら、果たして今の自分はどちらだろうかという思いが湧く。

実は、昨年末に退職した。すぐに次の仕事が見つかったからよかったけど、辞める前の自分を思い出すと、この映画に描かれているものが、当時の彼らが受けた苦しみに比べれば屁でもないけど、あの時の自分に重なった。


社員に対し、自分と同じ価値観を持たせたいと思う経営者の行動に疑問を持ち、反発するようになっていた。すると突然、上司を介して「辞めるか、それとも別の部署に行くか」と言われ、「辞める」という言葉が喉元まで出てきたものの、以前も軽率に退職して時間とお金を失ってしまったことがあったので、とりあえずは別の部署に行くことを承諾しつつ、時間を稼いで他の仕事を探し、ギリギリのところで逃げ出すことができた。

「同じ価値観を持たせたい」という経営者の気持ちは、僕からは原理主義的に見えた。けれども、「多様性こそ組織の力」という思いから反発した僕も、経営者と同じように原理主義的だったのだろうか。そう思ってはいないけど、端からはそのように見えたのかもしれない。

こうした原理主義的な考え方は、共産主義国家やイスラムの国々を例に挙げる前に、自分たちの身近にある。もしかしたら「この道しかない」と叫ぶのも一種の原理主義かもしれない。

誰もが自分らしく生きる権利がある。それは普遍的なものであってほしいけど、それすら儘ならない国・地域もある。そして、私たちが住む国では、民主的な手続きを通じて「私らしく」生きるのが難しい世の中になっているように感じる。


僕は年末に逃げることを選んだけど、昨年ヒットしたドラマのタイトルを例に挙げるまでもなく、逃げることが悪いとは思わない。
ただ、逃げずに耐え続けながらも、自分を失わずにいるという選択もあったのかなと、映画を観終えて考えた。


窪塚洋介さんは、優柔不断なキチジローの憎らしさと愛らしさを魅力的に演じられた。イッセー尾形さんの「いのうえさま」に苛立ちを感じた。

モキチには塚本晋也さんの誠実さがにじみ出てくるようだった。そして、モキチの父・イチゾウを演じた笈田ヨシさんの佇まいが美しかった。


自分のことを書くのはどうかと思ったけど、これからこの映画を観る方には、自分と彼らを重ねてみてほしい。いや、それは僕が言わなくても…

当時のような苛烈さは身を潜めているけど、その代わり、じんわりと息苦しくなっていくような今の時代にこの映画を贈ってくれた監督・スタッフ、そして俳優の皆さんに感謝しつつ、「失いたくない自分」とは何なのかを考え続けていきたいと思う。

転んだとしても、また立ち上がり歩き出せばいい。
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