ずっと書こうと思いながら、ずっと書けずにいた。
携帯ですらすらと書けるような、心躍るものではなかったからでもあるが、それ以上に、自分が感じたことをじっくり炙り出してみたかったからかもしれない。
先週水曜日、美術館の後に映画館に向かった。その映画を撮られた阪本順治監督によるティーチインが行われると知り、この日を選んだ。その映画とは…
『闇の子供たち』を観ようと思ったのはなぜだろうか。子供たちの置かれている現実の過酷さに対する問題意識からというのは嘘ではないが、自分の中にある何かを確かめてみたかった。
ドキュメンタリー作品ではないが、現実とフィクションの区別がつかなくなりながら、スクリーンに映し出される世界に不合理さや憤りを感じていた。そして、自分にできることは、そうした現実があるということを知ることだと思っていた。
映画のラストで一人の男の死が描かれている。自分が過去に犯した罪(その時は罪という認識はなかったのだろうか)の重さに耐えられず、死を選んだのだろう。その内容は違えども、子供の夢や希望を奪うという罪の重さを、僕を含めた大人たちはきちんと認識しているだろうか。
実は、子供を愛おしい存在だと思っているその気持ちの先に、小児性愛(ペドファイル)があるのではないかという不安がよぎることがある。性愛は大人の女性との間でしか成り立たないと思いながら、大人の女性との関係がうまく築けない自分がいて、ふと心に隙ができたらとか、ある程度のお金があったら…って、考えすぎだろうか。
自分の中にある何か…それをはっきりと確かめることはできなかった。ただ、この映画を観てこうして自問自答することには大きな意味があったのだと思う。そして、この不安を抱えながら歩いて行けば、道を踏み外すことはないような気もする。
その前に、思いを寄せる人とうまく関係を築くことが必要だ。
携帯ですらすらと書けるような、心躍るものではなかったからでもあるが、それ以上に、自分が感じたことをじっくり炙り出してみたかったからかもしれない。
先週水曜日、美術館の後に映画館に向かった。その映画を撮られた阪本順治監督によるティーチインが行われると知り、この日を選んだ。その映画とは…
『闇の子供たち』を観ようと思ったのはなぜだろうか。子供たちの置かれている現実の過酷さに対する問題意識からというのは嘘ではないが、自分の中にある何かを確かめてみたかった。
ドキュメンタリー作品ではないが、現実とフィクションの区別がつかなくなりながら、スクリーンに映し出される世界に不合理さや憤りを感じていた。そして、自分にできることは、そうした現実があるということを知ることだと思っていた。
映画のラストで一人の男の死が描かれている。自分が過去に犯した罪(その時は罪という認識はなかったのだろうか)の重さに耐えられず、死を選んだのだろう。その内容は違えども、子供の夢や希望を奪うという罪の重さを、僕を含めた大人たちはきちんと認識しているだろうか。
実は、子供を愛おしい存在だと思っているその気持ちの先に、小児性愛(ペドファイル)があるのではないかという不安がよぎることがある。性愛は大人の女性との間でしか成り立たないと思いながら、大人の女性との関係がうまく築けない自分がいて、ふと心に隙ができたらとか、ある程度のお金があったら…って、考えすぎだろうか。
自分の中にある何か…それをはっきりと確かめることはできなかった。ただ、この映画を観てこうして自問自答することには大きな意味があったのだと思う。そして、この不安を抱えながら歩いて行けば、道を踏み外すことはないような気もする。
その前に、思いを寄せる人とうまく関係を築くことが必要だ。