『1Q84 BOOK1』
『1Q84 BOOK2』
先日、ようやく『1Q84』を読み終えました。
若いころから、村上春樹氏の作品はわりと読んでいたのですが、
この作品はあまりにセンセーショナルだったので、
ちょっとほとぼりが冷めてから読もう、と思っていたのです。
ところが、BOOK3が4月に出版されるということで、
さすがにがまんできなくなりました(笑)
もうひとつ、なかなか手に取りづらかった理由のひとつは、
この作品がカルト教団のことを扱っているらしい、ということを
知ったせいでもあります。
カルト教団、というと、すぐに社会的な大事件を起こした
あの教団と教祖が思い浮かびますよね。
だから、なんとなく読んであまり快い内容とは思えなかったのです。
私は、学問としての宗教には興味がありますが、
(大学では宗教学の講義をけっこう熱心に聴いていました)
信仰としての宗教には興味をもてません。
だから、読んでてしんどいかも、と思ってしまったのですね。
しかし。
私が読んでみて感じたのは、カルト教団はひとつの背景であって
(ひとつの重要なファクターではあるのでしょうが)、
この作品で描かれているのは、実は究極の愛のドラマだったりするわけですよ(笑)
いえ、そんなロマンチックなものではなく、
もっと深いつながり、求め合う魂の物語。
いやいや、そんなカンタンなものでもなさそうで・・・
村上作品を読んでいつも思うのは、彼の作品は
ミルフィーユみたいだ、ということです。
何層にも折り重なっていて、上辺しかわからなくても
それはそれで楽しめる。
何年かたって読み直すと、もう少し深い層まで味わえて
ずっと美味しくなる。
でも、一度に全部を食べるのは・・・むずかしいですよね。
だから、喫茶店で注文するとき、ミルフィーユは頼みません(笑)
この『1Q84』も、いろんな層で面白く読めると思うのです。
深く読ま(め)なくても、ストーリー展開はスリリングで、さくさく読めます。
青豆さんも天吾くんも個性的で魅力的だし、ふかえりさんは神秘的。
老婦人、タマルさん、あゆみちゃんなどの登場人物も
それぞれにわけありで申し分なし。
カルト、DV、幼児の性的虐待などリアルな社会問題も出てきます。
それに、彼独特の気の利いた表現や、センスのいい文体も楽しめます。
これまでと違うなあと感じるのは、主人公が「僕」でなく
三人称で語られ名前を持ったこと。
だから、主人公の育ってきた背景(環境や家族のこと)が
詳細に語られていること、でしょうか。
読者はそれぞれどんな読み方であれ、興味深く読み進んで
いけるはずです。
ところどころ、「えっ!」とか、「え~!?」とか思いながら。
そして、少しずつ迷い込んでしまうのですよ。この1Q84の世界に。
自分は安全なところで(もちろん)読者として
この世界を傍観していたはずなのに。
小説というものは一旦読み始めたら、そこは「ここ」とは違う世界があり、
異なった時間が流れています。
そういう意味では、本を読むという行為そのものが
パラレルワールドに一歩足を踏み入れる、ということなのかもしれません。
そこでは、正しいと思っていたことが間違いであったり、
悪だと信じていたものが悪でなかったり。
立場や見方によって、絶対だと信じていたものが、
いともカンタンに覆されてしまうのです。
卑劣なDVをい繰り返し、こんなヤツ死んだほうが女性のためだ、
という信念で殺人を指示する老婦人と、それを行動に移す青豆さん。
読んでいるうちに自分もそんな気になってきます。
そうだ、こいつは女性の敵だ・・・死んだほうがいいんだ、と。
しかし。
そう信じて自分たちに不利な人物の殺人を指示してきた教団の犯行と、
どこがどう違うのか。
許されてもいい殺人があるのか。
そう思うと、いつのまにか「それは正しい殺人だ」と
思い込んでいる自分にどきっとします。
罪は法で裁くものだと頭では理解しているのに。
この小説を読んでいるとき、どこかに違和感を感じていました。
青豆さんと天吾くんの究極の恋愛にも、
老婦人の、どこか浮世離れした雰囲気にも、
得体の知れないカルト集団や、謎のリトルピープルにも。
この違和感、居心地のわるさは何なのでしょう。
今自分のいる世界に疑問を感じてしまう、
そんな不安定な精神状態に陥ってしまうからでしょうか。
それに結末も、「えっ、ここで終わり!?」と
消化不良を起こしてしまいそうな終わり方です。
深い森に迷い込んで出口がみつからない、みたいな。
(だから、よけいに不安になるんですよね)
4月に出版されるというBOOK3。
どんな展開になるのか楽しみです。
(謎は深まり、途方に暮れるだけかもしれないけれど)
とりあえず、それまでにもう一度読み直さなくては。
そのとき、また新しい発見があるかもしれません。