台風が過ぎてから、ずっと気持ちのよい青空が広がっています。
今のうちにと、義母宅の布団部屋にしまいこんである布団を
ぜ~んぶ引っ張り出してきて干しました。
お日さまにあたってふかふかになった布団の気持ちいいこと!
そのかわり、くしゃみと鼻水が止まらず耳鼻科へ行くハメになってしまいましたが
こんなふうに、台風のあとも私のまわりではいつもと変わらない日常です。
しかし、近隣の市や同じ市内の中でも浸水の被害にあった地域は、いまだに
泥だらけになった家や職場の後片づけにおわれているようです。
毎年お米を分けてもらっている主人の知り合いが、実家は床上浸水したものの
かろうじて新米は無事だったと、一昨日その新米を届けてくださいました。
でも、まわりの農家では田畑が水につかったり、稲が流されたりして
農作物にも大きな被害で出ているそうです。
こんな身近で自然が猛威をふるうのを目の当たりにした今、たまたま
手にしたのがこの『想像ラジオ』でした。
新聞の書評を読んでずっと気になっていたいたのですが、先週久しぶりに行った
図書館で見つけ読み始めたところだったのです。
震災のことを描いた小説として話題になり、読まれた方も多いと思います。
軽快な語り口で読みやすく、それでいて書いてあることはとても深い。
たぶん、読んだ人それぞれに深く感じる部分があったのではないでしょうか。
津波にあった赤いヤッケの男DJアークが、杉の木のてっぺんに引っかかり
仰向けになったまま軽快なおしゃべりを放送する・・・
というちょっとありえない状況で話は始まります。
そもそもDJアークは自分の妻や息子がどうなったのかを知りたくて
「想像ラジオ」を始めたのですが、リスナーがどんどん増えていくにもかかわらず
二人からはなんの連絡もありません。
一方でリスナーからは、それぞれ自分の状況や思いが淡々と伝えられていきます。
それを読み進むうちに、どうやら彼は津波に流されて死んでしまったこと、
同じように亡くなった人たちがリスナーであること、
そして、それが生きている人たちにも届いているらしいこと、
などが読み手にもわかってきます。
そう、彼は死者の声を想像力という電波にして放送していたのです。
別の章では、その噂を聞き、自分もその声を聴きたいと願っている作家S、
「亡くなった人の声が聴こえるなんていうのは甘すぎるし、
死者を侮辱してる」と訴えるボランティアの青年、
鎮魂のイベントをしたヒロシマで、亡くなった子どもたちの声を
聴いたことがあるというカメラマンのガメさんなど、
東北にボランティアへ行った彼らがその死者の声のことを話題にします。
生者と死者の両方から語られる「想像ラジオ」。
死んでしまった人たちの思いと、生きている者たちの思いが綴られます。
ボランティアを終えて帰る途中の車内での彼らの会話は、
私たちのそれぞれの思いを代弁しているようにも思えました。
大切な人を突然失ったとき、私はどうなってしまうのだろう。
災害や事故や事件がニュースになるたび、そんなことを考えてしまいます。
泣いて、泣いて、この世に絶望して、生きる意欲を失って、
それでも生きていかなきゃいけなくて・・・
もう一度会いたい、声だけでも聴きたい、ずっとそう願いながら
どうやって立ち直っていくんだろう、と。
あるいは、逆にもし自分の命が突然奪われてしまったなら?
何で自分が!?まだやりたいことはいっぱいあるのに。
残された家族を思うとまだまだ死にたくないのに。
そんな無念や家族への思いを、誰にどうやって伝えられるのだろう。
私が自分なりに思うのは、せめて自分がこの世に存在したということを
誰かに覚えておいて欲しい、そして時々思い出して欲しい、
ということにつきます。
それが自分の生存していた証であるような気がして。
だから思うのです。
世代が変わって誰も私のことを覚えてる人がいなくなった時点で
私は本当にこの世からいなくなってしまうのだろうな、と。
この作品でSがこんなことを恋人に話します。
「生き残った人の思い出もまた、死者がいなければ成立しない。
だって誰も亡くなっていなければ、あの人が今生きていればなあなんて
思わないわけで。つまり生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。
決して一方的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、
ふたつでひとつなんだ。」
「・・・生きている僕は亡くなった君のことをしじゅう思いながら人生を
送っていくし、亡くなっている君は生きている僕からの呼びかけをもとに
存在して、僕を通して考える。そして一緒に未来を作る。・・・」
ああ、そんなんだ・・・
でも、こんなふうにある意味前向きに考えられるようになるのは、
たくさんの涙を流し、ぽっかりとあいた心を抱いてひとりで気の遠くなるような
時間を過ごしたあとなのでしょうけれど。
この作品を読んでいて、私が何ともいえない気持ちになったのは、
死んでいく人たちの恐怖、悲しさ、そしてどうしようもない悔しさが
伝わってきたことなのですね。
何でこの人たちが死ななきゃいけなかったんだろうという
理不尽な思いをを強く感じたのです。
それはこの震災のことだけじゃないですよね。
日々、事件や事故に巻き込まれて亡くなっていく人たちがいる。
いつか、家族や、友人や、あるいは自分もそうなるかもしれない。
突然自分の命が奪われる恐怖、憤り・・・
どんなに悲しんだって、誰かを罰したって、もう二度と生き返ることの
できない人たち。
その人たちのために、一体何ができるのか・・・
大きな事件も、甚大な被害をもたらした災害も、人は忘れていきます。
その時は悲しんだとしても、直接かかわっているのでなければ
自分の生活に、自分の抱えている問題に精一杯で、過去の事件や
災害のことにまでなかなか思いをはせる余裕などないのです。
だからこそ、写真や映像や文章で訴え、残していかなければならないのでしょう。
そういう意味でも、この作品は私にとって衝撃的な1冊となりました。
忘れないために、気になった箇所をここに書き留めておこうと思います。
死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、
まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。
この国はどうなっちゃったんだ。
「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を生きるべきだ。
まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。
でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間をかけて
耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。
死者と共に」
今まで僕が想像力こそが電波と言ってきたのは不正解で、本当は悲しみが
電波なのかもしれないし、悲しみがマイクであり、スタジオであり、
今みんなに聴こえている僕の声そのものなのかもしれない。
つまり、悲しみがマスメディア。テレビラジオ新聞インターネットが
生きている人たちにあるなら、我々には悲しみがあるじゃないか、と。