九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

多賀氏 と 九里氏・小堀氏・後藤庄三郎 そして 明智光秀?

2020-02-15 | 多賀氏

近江国六角氏の家臣に後藤氏がいて、九里氏は直接ではないが誅殺されているのだが、その後藤氏とはまた別の「後藤庄三郎」。
この人物は大江親広の末裔とあったが【大江能範】の末裔なのではないだろうか?
とすれば、基綱ー基政の裔となる。母方なので、大江は名乗っていないが裔である。

しかし一方で、長井氏という。この長井氏が祖父という。
この長井というのが、松波庄五郎(別名:斎藤道三の父 長井新左衛門尉)という。
この庄五郎には別に、峰丸、法蓮房、松波庄五郎、西村勘九郎、長井新左衛門尉、松波庄九郎、山崎屋、西村正利…という名前がある。
もう一方で、たしか後藤氏には斎藤氏とのつながりがあった。

この斎藤利治(道三の末子)が後藤庄三郎の父というのである。

後藤庄三郎は小堀氏とも懇意である。
この小判を作った男と言われる「後藤庄三郎」がいて、両替商の九里庄三郎につながるとすれば、面白いなぁ・・・と思う。
でも、後藤氏を名乗った形跡は、九里氏にはない。
後藤氏からの娘も入ってきてはいないようである。
但し、初期の中原氏時代には後藤氏とは関係がある!と思っているこの頃である。



http://3-gin.net/d-mituhide-kouza05.html


そのあたりをすぐ上のアドレスの明智光秀が佐目に住んでいたこと等の記事をからめて読むとめちゃくちゃ面白い!!

多賀氏のお膝元にいて、もちろん久徳氏(きゅうとく)もいて、きっと九里も隠れて混じっていて…である。
この関連記事を読めば読むほど、そのように思え、しかも深尾氏の隠れていた「いなべ」とも近いので、なおさら親近感が。

京極高次も明智光秀を応援していたようなので、更に! 
京極高次の分限帳には「九里次郎左衛門」が載っているのである。




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7 コメント

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記事にしてみました。 (kunorikunori)
2021-01-05 21:48:27
三銀蔵様

素晴らしい情報でした。
ありがとうございました。

この三郎丸、浅子井氏(深尾氏)に連れられて逃げた幼い子だったかもしれず、また、まだ他にも居たのかもしれず‥‥いずれにせよ、いろいろな人の助けで現代にまで続いているのだと思いました! 感謝です。
返信する
情報、ありがとうございました!! (kunorikunori)
2021-01-05 10:36:35
三銀蔵様

リンク、大歓迎です!どうぞよろしくお願いいたします。

いま、PCを急遽切らなくては…後で、又コメント入れます!!!ごめんなさい!!!
返信する
びっくりしました (三銀蔵)
2021-01-05 08:19:11
高橋正一様
kunorikunori様
とても、貴重な情報ありがとうございます。
多賀高忠、びっくりしました。山崎の合戦に犬上衆として新左衛門もつながる気が致します。これについては、又、勉強します。ありがとうございました。

さて、九里氏についてです。既知の内容かもしれませんが、以下に出てきます。

光秀出自の最古の文献?「江侍聞伝録」が12月に公開されました。そのあたりは、こちらに書いています。
https://note.com/3_gin/n/n5befde6523d3

釈文のコピーを手に入れ、OCRで変換しましたので精度は悪いかもしれません。原文がお読みになれるのであれば、それにこした事はありませんが。

注釈の所に
※三郎丸京極家属し 丹後守落世後備前に有
岡山太郎衛門今に有
※九里末関東に下り上杉則政公に属九里采女介
出頭す
とあります。

父伊場是ヲ見出仕ヲ止テ篭城ス時屋形伊庭山
八王子峯二城ヲ栴見下シテセメラル下総守難
城二及ヒ岡山之城主九里三郎左衛門尉縁者ニ
ヨリテ後詰ヲ頼ム九里ハ江州第一卜誉有剛強
之侍大将故不及子細加勢ス下総守カヲ得堅固
在城ス因致屋形ヨリ先岡山ヲセメヨトテ木村
河内守実冬高木右近大夫両人工仰付ラレ五百
騎ヲ以九里対治卜而賀茂郷二出張ス三郎左衛
門元ヨリ江南第一卜云ホトノ大剛強ノ大将ナ
レバ牧村表二打テ出既二合戦二及賀茂之郷二
ァ追ツ返シ相戦フ木村高木少アクンテ八幡表
工引退クイヨ心町九里勝ー一乗テ追カクル依
之両人軍兵二下知シテフ留爰ヲ去テハ吾居
城工九里必定責寄ヘシ然ハ近国迄も悪名立ラ
レ先祖留代カキン也トテ自ラ真先二進勇々シ
テ取テ返シタカイニ万死一生ニタ、カイ終
打勝チ九里三郎左衛門伊庭大夫両大将ヲハ八
幡黒橋ニテ打取其外敵軍少々生残者共岡山ニ
帰トイヘ共大将打死ノ上子息三郎丸イトケナ
クシテ篭城不相叶トテ皆散々二落失ニケリ※註

※三郎丸京極家属し 丹後守落世後備前に有
岡山太郎衛門今に有
※九里末関東に下り上杉則政公に属九里采女介
出頭す


是ヨリ岡山之城タイテンス今ニヲイテ跡而
已残ル水クキ之岡昔之名所計也此所ハ往古城
ヲ開賜フハ宇多帝近キ五六代ノ間卜聞秀義公
モ此山二在城ス城ヲ開給時之家臣小倉某卜云
此者逆亡シテ大蛇卜成奥之嶋ワクライノ橋二
住ム其ョリ今二於テ大蛇之渕也小倉力代二至
二十九代ニナルト云籾岡山ニハ一度公方モ
在ス云主ヲ亡失ス岡山公方卜計聞長命寺松ケ
崎ヨリ五十町之所橋有ツルト云是松ケ崎モ名
所ノ内也岡山者説々由来多シ扱九里打死之所
二木村下知シテ塚ヲ築今二大夫両人卯之塚黒
橋二有下総守其後伊場之城ヲ開退伊賀国エ牢
人ス末孫備前岡山二有又伊勢鳥羽二有所々二
有卜云伊場ハ安土山二依テ向二名付卜云風土
記ヲ不見伊場氏ハ佐々木之氏族七代之官領経
方公之三男元租卜云氏神八王子多武大明神
・・・・

このブログをリンクさせて頂いてもよろしいでしょうか?
返信する
とても勉強になります! (kunorikunori)
2020-07-01 23:00:25
高橋正一様
レジュメ拝見いたしました。
とても興味深いです。
私もこの周辺が気になっていたのですが、まさか足利義輝が出てくるとは。
九里浄椿は足利義澄を匿い、その匿っていた水茎岡山城で【義晴】が生まれています。
その義晴の息が【義輝】ですね!

この辺りの「お題」をいただいた感じです。
妻の妙秀も気になっていた女性です。
レジュメにありましたエピソードも嬉しかったです。ありがとうございました。
また、なにかございましたらご教示お願いいたします。
もしも、小さな発見がありましたら、記事にいたします。
返信する
Unknown (高橋正一)
2020-07-01 18:13:07
 こちらのサイトで、多賀家と片岡家がけっこう絡んでいることを知りました!

下記の掲載など、引き付けられました!
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近江蒲生郡志の浄椿の法名の『片岡』が気になって、片岡というワードを探っておりました。

片岡社という賀茂別雷神社(上賀茂神社)のなかにある社、近江の伊香郡にある片岡郷、近江栗太郡にある片岡村、など浄椿に関係のありそうなところを探しておりました。

その中に片岡常春四代孫が多賀豊後守高忠になっている系図があることを知りました。もしこれが正しいとすれば、同じ江州中原です!
(文明元年(1469年)に伊庭の領地である蒲生郡下郡嶋向を宛がわれています。)
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 こちらが教えて欲しいほどです。よろしくお願い致しますm(_ _)m

 片岡家も本阿弥家と何代か姻戚関係があります。多賀家/片岡家/本阿弥家は、一体どんな関係なのでしょうね?

 私は以前より「本阿弥光正」とは「本阿弥光二」のことではないかと思っていて、その事を発表致しました。今回、原本が再発見されたことにより、それが正しかったことが、いわば立証されました↓

横浜歴史研究会2019年11月4日例会発表「明智光秀を織田信長に推挙した人物(高橋正一)」レジュメ↓
https://www.yokoreki.com/?page_id=21

返信する
コメントありがとうございました。 (kunorikunori)
2020-07-01 10:41:43
高橋正一様

面白いですね! 本阿弥光悦の実父が光秀を信長に推薦したとすれば、やはり光秀のことをよく知っていたという事になるかもしれません。

何故、多賀氏の近くで光秀が育ったのかも、そこを糸口に解き明かされると嬉しいです。
まずは、佐目に光が当たり、研究が進むことを願っております。

片岡次大夫(宗春)のこと、何かご存知でしたら教えてください!
それよりも以前の片岡氏も探しております!

どうぞよろしくお願いいたします。
返信する
Unknown (高橋正一 hah00174@nifty.com)
2020-07-01 09:48:28
 私は、江戸時代中期の京都人「神沢杜口」が著した随筆「翁草」を研究している在野史家です。

 翁草の巻117に「多賀高忠」の次男で「片岡次大夫」の次男とされている「本阿弥光二(本阿弥家に養子に入る、本阿弥光悦の実父)」が、明智光秀を織田信長に推挙した話が載っております。

 やはり多賀一族として、明智光秀を応援していたのでしょうか? 多賀家と片岡家の関係が、もう少し明確に判明すると良いですね!

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  巻117 - 本阿弥の話 -
明智光秀を信長公へ吹挙せしは本阿弥光二なり、後年、神祖、光二へ仰けるは、人を肝煎吹挙する事、卒爾にはせぬがよし、光秀が如き者すら図らざる弑逆有り、況や常並の者いかなる事をか仕出すらん、汝等は諸家へ廣く立入る者なれば、一人共心得をすべしと御教誨有り、光二慎みて奉之、夫より本阿弥の家格として何方へも人を肝煎事なし、今も浪人の類、様々頼め共、右の由を以て断を申と、今の本阿弥十郎左衛門語りき
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 以下、上記をやや意訳的に現代語訳してみる。
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  - 本阿弥の話 -
  明智光秀を織田信長に推挙したのは本阿弥光二である。
  後年「本能寺の変」の後、神君(徳川家康)は本阿弥光二に対し「人を推薦したりすることは、簡単に行わないほうが良い。光秀ほどの人物でもあのような謀反を起こすのだから、まして普通の人は何を仕出かすか判らない」。
  「本阿弥家は、いろいろな家に出入りすることが多いのだから、よくよく気を付けなければいけない」と教え諭したところ、本阿弥光二は慎んで聞いておりました。
  それ以後、本阿弥家では、就職の口利き・世話などはしないことにしました。
  今も浪人らしい者達が、いろいろ頼んで来るが、以上の事情があるのでお断りしていると、今の「加賀本阿弥」の当主「本阿弥十郎左衛門」は語った。(筆者 訳)
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 現在刊行されている翁草の活字本(明治38年「池邊義象」校訂本が底本)では「本阿弥光正」となっておりますけれど、昨年、埋もれていた原本が再発見され、その巻117には「本阿弥光正」ではなく「本阿弥光二」と書かれておりました。
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