美濃国加茂郡河辺荘は室町時代から…という事がわかった。
(川辺町史 通史編 著者川辺町史編さん室 1996.2)
という事は、中河辺という地名は 下河辺に付随していた場所(新方)の別称であったか、近江国高島郡の安曇川の比叡荘の中の中河辺か…
新たに見つかったのが出羽国?秋田県の中河辺か。
そこは少し横に置くことにして、
中原清兼の父と思われる清祐のことである。
中原清祐に関しては土地の売却に関する資料幾つか…しか出てこない。その土地について調べてみることにした。(地図 ●11番)
六角室町の中原清祐の土地
隣に「了頓図子」とあるが、これは三条通から六角通に抜ける路地だそうだ。(京都通百科事典)
廣野了頓という人物がこの辺りに住んでいたそうである。
波多野義通の妻の妹であると仮定し、妻とその妹の実父は中河辺清兼と仮定する。
中河辺清兼は、中原であり中原清兼のことと思う。
波多野忠綱の母も宇都宮宗綱女であり、波多野氏と宇都宮氏(中原氏を含む)は重縁である。
其の中原清兼の父が中原清祐である。
この清祐の先祖から相伝として受け取った土地が六角室町であったのだ。1135年に西面を・後に西角を売却する。
購入者は此の武元である。(+家族らしき人名は以下)
1096年 秦武末
1116年 秦武元
1116年 秦延國
関係するのが一番下の本部分である。
秦武元佐伯氏とあり、秦武元の後家に渡っているようである。
その佐伯氏とは、波多野氏の先祖でもあるかもしれない。
どうも、此処が秦氏と佐伯氏(秦氏・波多野氏)そして清祐・清兼と波多野氏の関係を示唆しているように思える。
波多野義通の父は波多野遠義で、母は藤原師綱女である。
母方の系は遡ると道長に通ずることになる。
その道長ー兼家ー道兼ー兼隆ー兼房ー宗円となり、宗円から宇都宮氏となる。
兼隆の正室が佐々木氏につながる源扶義女である。(兼房の母)兼房の妻には大江匡子(江侍従)(大江匡衡女)となる。
宇都宮宗綱(八田宗綱)の養父が宗円である。
宗綱は中原宗綱ともいえる。中原宗家が実父となる。