古代時代の日朝関係史と国家形成論をめぐる考古学史的整理 高田貫太 氏 著
https://core.ac.uk/download/pdf/294897883.pdf
上記の論文を読んだ際に時代は違うが、武烈王と額田王を思い出した。
彼女がもしも新羅国王であった武烈王の妻であったとするならば、武烈王が人質として日本にやってきた際に通詞役の人質として共にきていて、額田王は武烈王が唐に赴いた後にも、日本に残ったのではないだろうか?
【402 年に新羅奈勿王の子未斯欣が倭に「質」として派遣されたことや,倭に「質」となっていた百済の太子直支(腆支)が 405 年に倭から百済に帰り王位に就いたこと,
532 年頃の「いにしえの任那加羅の地,所謂任那の原体」たる「金官国の新羅投降」は,「日本勢力の一大失墜にほかなら」なかった。
新羅王にいわゆる「任那の調」の貢進を要求し,それを履行させることによって,646 年まで継続した。この時から,任那は「滅亡期」に入る。】
上記の646年 ↓ (春秋とは『武烈王』のことである。)
大化2年(646年)に日本から遣新羅使として高向玄理が派遣され、新羅から任那への調を廃止させ、新羅から日本に人質を差し出させることとなり[4]、翌大化3年(647年)に高向は春秋を伴って帰国し、春秋は人質という身分で暫く日本に留まった[5]。