前々回の記事の熊谷氏の論文中の表によると 562年に新羅が任那の官家(みやけ)を滅ぼすまでに少なくとも32の手は打っていた。
私の読み間違いもあるかもしれないが、敏達天皇は、10回ほど何等か行動したり、新羅や他国から来た調べを受け取らないなどあったが、あまり進展しないうちに用明天皇となる橘豊日皇子に後を託している。
崇峻天皇の時には2万の大軍を筑紫に派遣して、吉士金を新羅に、吉士木蓮士を任那に遣わせている。
(吉士氏は外交担当と思う。)
そして、推古天皇の時代に入る。推古天皇は欽明天皇の娘である。
推古天皇と共に聖徳太子がいたはずだ。
そこに入る前に、百済国の王 武寧王とその周辺を見ると…
「461年頃、王子の軍君昆支を倭国に人質として送りよしみを通じた。なお、『日本書紀』には、昆支が倭国に向かう際に伴った婦人が筑紫の各羅嶋(かからのしま)まで来たときに王子が生まれたので百済に送り返されたこと、その王子が武寧王であることを記している。詳しくは「武寧王#『日本書紀』の記述」を参照。 」
(嶋君!である。)
502年に百済の王となっている。
さらに武寧王の王妃のことだが、
百済の第18代の王・腆支王の王妃である八須夫人は倭人だったと主張しており、関連して、金鉉球などは、昆支王、東城王、武寧王の王妃も倭人であり、倭国王家が政策的に婚姻させたと主張している。
523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明)であるが、『日本書紀』は513年に百済太子淳陀が倭国で死去したと伝える。武寧王の本来の太子は淳陀であるが、倭国で死去したために余明が代わって太子となったという解釈も可能である。この淳陀太子がいつ倭国に来たのか記載はないが、武寧王は41歳に至るまで倭国で生活していたとして、淳陀は倭国で生まれ、そのまま倭国に留まっていたと主張する説がある。
仮説なのかもしれないが、502年の王となるまで倭国にいたという事になる武寧王である。
(筑紫から送り返されなかったのか、はたまた、後に倭国に人質として入ったのか。)
彼の息が欽明天皇時代に名が見える聖王である。
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さて、推古天皇の在位は593年からだが、その頃の百済王は威徳王在位で、598年から恵王、599年からは法王、600年からは武王が在位となっている。
推古天皇時代の外交に頻繁に記述のあるは、聖徳太子が存命であったと言われる年の次の年623年迄続く。
が、その後ピタリと記述が無くなる。