「『後法成寺関白記』享禄元(1528)年7月3日条に「九里源兵衛が堺に下向するので、近衛尚通が近衛家領のことを源兵衛に申し付ける」という記述がある。」
この下の文書が同じものと考えると、近衛尚通の娘である「継孝院」の家領のことで、六角家臣であった永原氏等に言伝を依頼されている。
さらに、下記の文書
永禄七年 1564年 桜本被官九里但馬 足利義晴の正室である慶寿院(義輝・義昭の母)
と、ここでもまた近衛尚通の娘で、義晴の正室となった女性と共に文書に登場している。
さらに、年代が不明ながら、義昭の時と思われる時代?にも九里がおり、調法で云々とある。
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足利義澄の息(亀王丸=義晴)が生まれた際に播磨守の赤松義村にまで付き従って赤子を守っていた女性や武士、乳父母もいたのではないだろうか?
とすれば、九里の中から誰かがその役に付いたかもしれないし、
水茎岡山城が崩壊した後に縁があって近衛尚通の家司、または、幕府の公方様の近習などに抜擢された者もいたかもしれない。
それが、源兵衛だったのだろうか。
鳴動するという小袖を返還するために赴いた際に,というタイミングであったかもしれない。
足利義晴と九里源兵衛は、同じ世代である。
近衛さんも麒麟でもその他でも気になりますね。