『柳原黄門様 登山ス』と註がついている。
見松院=見性院と思われ、恵吟という僧が出した手紙で、寂静院法印様宛となっている。
五坊寂静院 ↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%9D%8A%E5%AF%82%E9%9D%99%E9%99%A2
柳原氏とは、日野俊光の四男から始まっている。
柳原 資明(やなぎわら[1] すけあきら)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。藤原北家真夏流日野家、権大納言・日野俊光の四男。官位は正二位・権大納言。「柳原殿」と称される邸宅に住んでいたため、柳原を家名とした。柳原家の祖。
柳原黄門様と入力して出てきたのが以下の人物であった。(東京大学史料編纂所DB)
天正4年(1576年)
天正4年6月8日 | ヘカヘラルルーー、次冷泉来談了、一、柳原黄門(淳光)ヘ罷向了、令雑談了、一、右大 (雅教)・老父・庭田・葉室・持明院・柳原黄門・四辻・甘露寺・西園寺黄門(実益)・ |
言経卿記 |
日野氏の家司などであった九里氏であるため、柳原氏とも繋がっていたと思われる。
この柳原淳光を調べてみると淳光の父であった町資将の娘が近衛尚通の女房となっていることがわかる。
この辺りから、九里氏は近衛氏とのつながりが出来たのかもしれない。
町氏とのつながりは、高辻氏とも、藤波氏とも繋がっていることとなり、其の藤波氏の兄弟には大中臣氏がいる。(藤波・高辻氏は半家)
この辺りから、何かしら戦国時代後期の九里氏の動きがわかりそうである。
1576年と言えば、1570年に九里三郎左衛門が信長にスパイ容疑をかけられ、土地も人も没収されてから6年である。
石山本願寺も再挙兵の年で、紀州雑賀衆が石山本願寺に味方をし、上杉謙信・毛利輝元・波多野秀治なども反信長となる。
石山本願寺は食糧不足を打破するために、顕如の息である教如が備後鞆の浦に向かい、信長によって京都から追放されていた将軍足利義昭の仲介で毛利氏と繋がり、7月には毛利軍により兵糧や弾薬が運ばれる。
翌年は紀州攻めが本格化するも一進一退の模様であった。
‥‥とこのようなカオス状態の大和・紀伊であった。
状況を見ると、柏原織田家臣系譜の中の磯野氏は、信長にのみ込まれた方ではなく、反信長であったようである。