web情報と東京大学史料編纂所情報を合わせて書くと、
康平6年(1063)に国司庁宣により清原頼行が久利郷司に補任されている.…ということは、清原氏が久利郷にいたため【久利氏】となっていた(=在名)可能性もあると思う。
当時の国司は【清原定隆】その父は【清原頼隆】であった。
応徳元年(1084)には【入道学源】が清原近俊・清原正宗と連署で先祖相伝の領地である久利郷を【清原則房】に譲っている。(清原則房解 応徳元年九月十五日)
大治元年(1126)には
「庁宣 留守所 定 遣 久利 仁満 両河 内 三箇郷 事 四至限 云々」とあり、
【清原長房】が先祖相伝の久利・仁満・両河内3ヶ郷を安堵されている。
久安元年(1145)に
「留守所下 散位 清原真人長房 右人 、任先祖 相伝之理人 …補任 久利別符司 之 職如件 …」とあり、清原長房は「久利別府司」なるものになっていたらしい。
そして、1193年~1200年は佐々木定綱が石見国守護となっている。
佐々木定綱:近江、長門、石見、隠岐の守護へと任ぜられる。
詳細はこちらへhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%AE%9A%E7%B6%B1
今度は「九里 久里 久利 一族」という本の中からご紹介したい。
ただ残念なことに図書館に依頼しコピーを送っていただいたため、すべてはコピーできず、しかも原本を見ないで依頼しているため肝心のところがない。
久利氏の鎌倉時代は
「久利郷の地頭を久利七郎祐房とす。祐房の後にも久利赤波公房などいへる人あり。按ずるに、久利郷司に任ぜられ清原氏代々これに居りて久利氏を称せしものの如し。」
戦国時代
「大内氏の属す。“隠徳太平記”には天分十二年七月、久里清六兵衛、久里佐馬介、家城を渡し、尼子に降る。と見えたり。これ、清原氏の族ならむ。されど、石見の久利(里)氏は、一に藤原姓なりともいひ、久里の古城主、久里左京亮は、本姓藤原氏なりと伝へ、石見家系録には、久利三河守成勝、天正六年、上月城を攻む。久利藤原盛勝、同八年、久利八幡宮を修造す。といふ記録も見ゆ。これ、久利(里)氏は、もとは久利郷司・清原氏の族たりしに、のち藤原氏の人、系を交じへ…」 コピー終
もう一つの清原氏である【出羽清原氏】も、ほんの少し調べてみた。
コンサイス人名事典+wikipediaによると、
天武天皇の皇子舎人親王の子孫,清原真人令望の末裔清原光方の子 清原光頼・武則が「前九年の役」の際、源頼義に何度も依頼されて安倍氏を倒すために重い腰を上げたのだそうだ。
源頼義 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E7%BE%A9
…出羽清原氏は、その後内訌で衰退するが、武則の息武貞の養子に【藤原清衡】がおり、その実父は【藤原経清】亘理部の豪族であり、妻は以下の如くである。
妻
正室:清原氏の娘
継室:清原氏の娘
継々室:信夫佐藤氏の娘
継々々室:北方平氏
側室?:安倍氏の娘
子
惟常(家清)、基衡、正衡、清綱、男子、男子
娘(佐竹昌義室)、娘、娘、養女:徳姫(岩城則道室)
私は平泉で清衡のミイラを見たのだが、大きな人物であった。
下記の論文も興味深いものであり、貴族の流れとしての奥州藤原家が科学的に論証されているのでは…と思う。
http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN1301.pdf
【鹿ケ谷の陰謀】で捕らえられた者のなかに【中原基兼】がいて、奥州藤原氏のもとに預けられて(匿われて?)いたこと。
同じ事件で九里の祖との関係もあるかもしれない【卜部基仲帥】も捕らえられていたこと。
これらが、いろいろと絡み合って、九里の祖が出てきたのではないだろうか?
出羽清原氏のことが、三浦氏の本に出てきているところを見ると、三浦・佐原・真野とも関連性もあるのだ!(これから本を読むところ~デス)