上州の片岡氏
http://kdshiro.blog.fc2.com/blog-entry-1510.html
この地は古くは片岡村と呼ばれていた地で、平安時代末、坂東平氏国繁が入部し片岡氏を名乗る。二代経繁は平清盛に仕えたが、文治元年(1185)平家が滅亡すると、土佐に渡って黒岩城主となる。その際長男経俊と次男経政は亡き母の供養のため片岡村に残った。
文永二年(1265)新田一族の大島景継が中野に入部し中野城主になると、この城下町づくりに際してほとんどの片岡の住民は移住させられたという。
戦国時代以降の片岡氏については明らかではなく、現在南北に延びる土塁が往時を偲ばせる。
近江に移り住んだ方の片岡氏=近藤氏
https://masakishibata.wordpress.com/2017/04/15/kusatsu-kataoka/
片岡氏は平安時代末期に上野国中野荘に下向した近藤氏の一族。
近藤氏は同地に片岡城を築いて土着し、坂東太郎経繁の代に「片岡経繁」を名乗ったとされる。
片岡経繁は平家に従って壇ノ浦で殉じたとも、土佐に落ち延びたともいわれる。
国繁は若く歿し、その娘が近藤氏に嫁ぎ近藤経繁となったともある。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/52d2b5128486e7893ceb7359afbe32d8
「近藤 国重(こんどう くにしげ、生没年不詳)は、藤原秀郷流で島田駿河権守景親の子孫近藤国平の子。承久の乱後山梨県巨摩郡万沢村(現南部町)の浅間神社を再興して神主をつとめた。」かも知れないと思っていたが、どうなのだろうか?
近藤国重も片岡を名乗っていたとすると、面白い。
他の情報では平高望の五代後裔が国繁…となっており、国重の方は別人だ。国繁と国重が二人いたのである。
上州の片岡氏は平氏と共に壇ノ浦に居る。 一方、片岡経春は義経と共に壇ノ浦に居る。
いろいろな片岡氏がいたという事になるのだろうか?
それとも、一族が分れたのだろうか?
こちらは大和国の片岡氏
https://www.town.kanmaki.nara.jp/tourism/meisho/kataokajyo
片岡城を築いたのは片岡国春。上牧町内の下牧地区から金富地区へ抜ける峠道の頂部分に中世の山城と伝えられる片岡城跡があります。片岡城は1550年ごろに片岡国春によって築かれたとされています。
下牧に片岡城を築く前は、隣町の王寺町と香芝市の境界あたりにある小高い山送迎(ひるめ)山の標高262メートルのところにありました。この頃の葛城地方は片岡氏に続いて南のほうへ順に岡・万歳・布施・倶志羅・楢原・吐田の六人が勢力を伸ばし、倶志羅氏以外の五氏はいずれも山城を築いており、片岡国春の送迎山城も地理的に良く似たところにあります。