まず、調べやすい【長田資経】周辺から見ていこうと思う。
長田藤七郎資家 というのが源頼朝に附けた人物となる。
まだ調査中だが(経方) ー 資経 ー 実経(広経)
ー 二男・資家
また、【服部庄】というキーワードで因幡国を調べていくと、なんと伊福部氏がいた宇倍神社領であり、
因幡国法美郡 服部庄とある。
つまり、富木郷のあった場所と同じ法美郡である。場所は離れて見えるが、服部庄は大きかったのかもしれず、宇倍神社の奥とつながっていた可能性もあるのではないかと思う。
以下に、因幡国のことが詳しく述べられており、助けになった。
袋川流域風土記 https://www.cgr.mlit.go.jp/tottori/tono/25shisanmeguri/pdf/fudoki.pdf |
福部村が服部庄とは誰も言及はしていないのかもしれないが、私の想像では広い範囲だったとすると稲葉山の麓の宇倍神社と近い距離。
ところで、この因幡国の長田氏(服部・伊福部)と若狭国の永田氏がどうも繋がっているような気がする。
なぜならば、因幡国の因幡(稲葉)と長田のコンビが、また若狭国に勢力をもっていた【稲葉氏】(中原)と、長田(永田)のコンビにも見えてくるのである。
さらに、突飛にも思えるのだが、若狭国の永田時信の系図に三浦氏が現れてくることから探っていくと、
永田が三浦氏とつながった理由も、実は富士の宮下文書に書かれていることと繋がっているのではないだろうか?
そこに驚くことに、長田藤資家も登場しているのである。
宮下文書に関する記事があった【水石の美を求めて】さんより、一部拝借致しました。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/category28-6.html
三浦義明の長子義顕は、保元の乱・平治の乱に破れ、平治2年(1160年)富士阿祖谷に落ち、寒川神社の大宮司・宮下義太夫政仁の計らいで宮伴となり、翌年寒川大明神を元始にもどし富士八幡と改めた。
そして、嫡子源重成を宮下源太夫義仁に改名させ富士七廟(富士高天ヶ原神廟)の大宮司を継承させた。
源重成、とは聞いた名前である。(=宮下源大夫義仁)
この大宮司継承した重成は
【源義朝】の長男であった源義平
義平の母である【三浦義明娘】
という関係とどこかで重なり合っているのかもしれない。
三浦義顕の養子?として源重成を迎えたのだと思う。
日牟礼庄を預かっていた重定の兄であった源重成だろうか?
それとも別人だろうか?
近江比牟礼庄の源重定の兄である「源重成」
源義朝の側近として知られる近江守源重成だそうである。
wikipediaより ↓
義朝は東国で再挙すべく京を脱して落ちるが落人狩りで、義朝の大叔父の源義隆は死に、朝長も腿を射られ重傷を負った。大勢では逃げ切れまいと付き従っていた坂東武者たちを解散して、義朝と子の義平・朝長・頼朝、それに一族の源重成・平賀義信、家人の鎌田政清・渋谷金王丸の8騎となり、関東を目指した。雪中の逃避行で年少の頼朝が脱落してしまう。
確かに、義朝が歿した際には、散り散りになって、何処かに潜み匿われたに違いない。
上記の記事の中には「徐福の子孫は必ず名前に徐福の福を付ける」とあり、伊福部・服(福)部とどこか通じる?
この徐福がいたといわれている場所は、波多氏が活躍していた場所に近い。
きっとこの辺りでつながりができた事と思われる。
まだバラバラな情報を集めてきただけだが、きっとココに何かあると思う。
最後に【神皇紀】を少々貼っておこうと思う。