波多野次郎朝定(朝貞、義定の子、弥次郎、中嶋太郎義泰の兄弟)
義定の姉の母は伊勢神宮外宮の神人荒木田盛長の娘とある。
大中臣氏とこの荒木田氏は同じ伊勢神宮と関係がある様で、ちかしい関係のようだ。
和歌の世界で活躍している人を輩出している。
そして義通の母が藤原師輔であったことのつながりが、ココには影響しているのかもしれない。
この朝定なのだが、藤原朝方という人物がいて、その息が朝定。
朝方の妻は、なんと義通の母と姉妹なのだ。
遠義の妻と朝方の妻が‥‥という事で、上記の系図と合わせて考えてみると、
「義職」の註に遠義為子とある。
その息義定の妻が俊兼の娘、
其の義定の息朝定で、藤原朝方の息と同名の男子:藤原朝定(1165-1183)とあるのだ。
偶然に同じ名前の人物がいただけなのだろうか?
更に竹泉筑後守俊通とあり、この俊通は誰なのだろう?
前回秀郷流の中での義通ー俊通の俊通としたが、他にも居そうなのである。
下記の人物だろうか?橘俊基は市川市史にも出ている。
その俊基の孫が俊通となり、義定が養子として入ったとし、義定の妻が藤原俊兼の娘である。
こちらの人物は筑後守ではないが、1178年迄は確実に生きている。
藤原俊通
没年:没年不詳(没年不詳)
生年:大治3(1128)
平安末期の公卿。太政大臣宗輔と橘俊基の娘の子。平治1(1159)年参議,応保1(1161)年権中納言になるが,翌年には不仕により恐懼している。その後正三位となり,後白河院庁の別当,民部卿,兵部卿などを務める。承安3(1173)年病により官職を辞し,治承2(1178)年出家した。
藤原宗輔
没年:応保2.1.30(1162.2.15)
生年:承暦1(1077)
平安時代の公卿。号は京極太政大臣。権大納言宗俊と源俊房の娘の子。近衛中将・蔵人頭を経て保安3(1122)年参議。次いで中納言,権大納言。久安5(1149)年大納言,藤原氏として初めて淳和院別当となる。右大臣に続き保元2(1157)年太政大臣。永暦1(1160)年辞す。父から伝授された音楽の名手として知られ,鳥羽天皇の笛の師であった。蜂を飼うことを好み,それぞれに名を付けて呼び,出仕の際についてきた蜂を車にとまらせるなどしたため蜂飼大臣と呼ばれた。<参考文献>戸田芳美『中右記』
難しすぎて、混乱してきた。