気になる部分をコピペ(略有)して留めて置こうと思う。
河辺〔川野辺〕の地は、那珂川の上流の現那珂郡御前山村東部の野口平(その小字に川野辺がある)を中心とする地とされており…
中郡那珂氏一族がまさしく古代仲国造の宗族後裔であることが分かります。『新編常陸国誌』に引く『丹波志』に「天田郡…金山城主金山大膳大夫大中臣那珂宗泰」という表記も、古伝を記したものと考えられます。
中郡那珂氏の祖とされる上総介頼継が新治郡の中郡荘六十六郷を与えられ、その子頼経はこれを譲られて中郡を名字とし、その子経高は保元・平治の乱に参加した。鎌倉前期には、中郡荘地頭として中郡氏は幕府の有力御家人となり、承久の乱等で出雲や丹波・山城・安芸等に恩賞地を得た、と系図に記される。中郡荘の下司で中郡氏を称する経高は、『吉記』に見えており、承安四年(1174)には乱行で京に召喚されている。
鎌倉初期の那珂実久が十一年間京都守護職を務め、丹波・摂津・山城の守護人であったと記載されており、網野氏は十分肯けるとするも、その職掌には誇張があるのではなかろうか。
中郡那珂氏こそが多氏系であるとの事についても一つ。
大井神社の西・朝房山の北に、古内という地があり、昔は鹿島郷と呼ばれ、鹿島神宮の二十年に一度の修造の用材を採っていた地だといいます。鹿島神宮の宮司も大中臣氏ですから古代においてはずいぶん行き来があった事が伺われて興味深いです。
大井神社の西・朝房山の北に、古内という地があり、昔は鹿島郷と呼ばれ、鹿島神宮の二十年に一度の修造の用材を採っていた地だといいます。鹿島神宮の宮司も大中臣氏ですから古代においてはずいぶん行き来があった事が伺われて興味深いです。
大和の意富(多臣の本拠で、現田原本町多)は三輪山型蛇神伝説の発祥地・三輪山の真西に位置しますが、常陸では逆に朝房山の真西に意富と大井神社があります。大井神社(=鹿島明神)の祭神には、「建借馬命、木花開耶姫命」があげられます。多臣氏は、神武天皇の皇子神八井耳命の後裔と称しましたが、実際には竜蛇神信仰をもつ和邇氏族の出であったことに留意したいものです。「那賀」は長で、蛇の意味の「ナーガ」に通じますし、「那珂」だと和邇氏族の起源地・筑前国那珂郡にも通じます。
鹿島・行方両郡も仲国造の領域であったとが知られます。
【鹿島郷と呼ばれ、鹿島神宮の二十年に一度の修造の用材を採っていた地】と上記にあったが、これは栗の木であったのではないだろうか?
行方郡の三崎荘(海上荘)にいた片岡氏(佐竹の娘聟)も大中臣氏であった可能性もあるのではないだろうか?
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memo
丹波国の「浄心」は、雀部荘地頭であり、飯田次郎入道浄心 光信(1271年頃)であり、弟は光長であることがわかった。(祖父?は飯田清重1186年~1200年)
河守荘に関係する人物として「興心」がいる。
雀部荘あたりか ↑
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中原久兼が中原久経の叔父か、父か、異母兄か…どのようにしたら解明できるか。。。
久兼、河守御荘に名前があるという事は、大中臣系那珂氏であろうと思う。
だが、系図に久兼の名前はない。
ただ、大江久兼(山城介)の息久家が多好方(1130年生)から神楽秘曲伝授されている。
そして、絃管系図なので普通の系図と違うが、伝授したことによる養子となっていることも重要だと思う。
多氏という事は大中臣氏にちかい!
ここかな?と思う。
先ほど、刮目天様のブログを見ていて、吉備津神社・吉備津彦神社のことが書かれてあり、丁度私も調べておりましたので、参考になりました。
「中原景安(景康)有安と出会ったのは厳島神社か吉備津神社か」の記事です!
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/d1b08e85593188c6fd9b2ddb1ae04653
安芸の厳島の吉備津宮とあり、探しています。
何か情報在りましたら、ご教示お願いいたします。