典膳大夫であった中原久経と関係があったような記述の那珂氏
疑問符がついているようなので(「与欠」(一文字)は「~か?」という意味のようだ。)系図を書いている人も確信ではなかったようだ。
那珂経政と兄弟の近藤実広
古くは六浦荘という荘園が設置され、国衙(こくが)や郡衙の支配を受けない私有地であった。六浦・金沢・釜利谷・富岡が4郷から成り立っていた。当初の領家は仁和寺(皇族の門跡寺院領)であったとみられている。現在も真言宗御室派の寺院が東国では珍しく金沢区内に分布している。保元2年(1157年)に源義朝から恩賞として常陸国の那珂実経(大中臣実経)に六浦荘が与えられ領主になったとされている。
武蔵国久良岐郡
六浦の鎌倉時代の地図が面白い!
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今までわからなかった「九里太郎=沙弥蓮忍」は大中臣姓の「那珂五郎三郎経久」であった可能性があると思う。
中原久経とも関係がある。
中は、中原氏でもあり、那珂氏でもあったことになる。
中原清兼は、以前調べた際には武蔵少掾であった。(1147年)
中原久兼は外記史生(1158年)
大中臣久兼は丞とあるが、1246年という事もあり、別人であろうと思う。
中原久兼は中原清兼の外孫か?で、
久経の兄弟であった可能性もあると思う。
清祐ー清兼ー(娘)ー(娘と近江国中原・宇都宮中原との息か?想像)…久兼・久経ー経政・政経ー経久ー常忍 だろうか。
この久兼か久経が賢清(けんせい?)法名か僧名であったかもしれない。
ともかく、どうやら大中臣の略系図に記述のある金山氏になりそうな気配である。
九里の祖・太郎経久の父経政が【大中臣時連】に養子に入ったことから、か?
1174年生まれの片岡経久の説はどうだろうか。
1232年那珂氏が打撃をこうむった時に、経久が片岡経久とすると58歳の時である。
そして、河守御荘の文書は1239年 65歳の時になる。
在庁官人として因幡国(冨城郷地頭でもあったか?)に赴き、東国に帰ってくる時は1249年あたり 75歳あたりの時となる。
常忍は33歳である。
因みに北条泰時に一万石を頂戴しているが、泰時は1242年に歿している為それ以前となる。
何処か宙に浮いていた感のある中原久経だったが、少しこのようだったかもしれない‥‥という像が浮かんできたようにも思う。
因みに 那珂氏の中に「河辺大夫」と称していた人物がいた。
那珂通直である。
後には佐竹氏の家臣であった時もある那珂氏なので、
片岡氏が周辺にいてもおかしくはないが‥‥
久経は源氏と藤原氏と中原氏と宇都宮氏に関係があり、経政(経任)は想像だが、片岡氏と海上氏・橘氏に関係があり大中臣・那珂氏の養子となり、経久は平(千葉氏)との関係があり、佐々岐荘の下山保の地頭でもあったので、佐々木氏と関係もあったのかもしれない。
さらに、経久か、次世代かには、近江八幡に所領も、後には城(本郷城・久里城)もあり、佐々木氏の許に居たと思われるのである。
そうして近江八幡の九里氏となっていく。
川辺大夫や、中河辺清兼の河辺だが、
坂戸に片柳があり、そこか大宮の片柳が、大中臣氏の「武蔵国方屋木郷」のことのようである。(かたやぎ・郷)
この河辺(川辺)と方屋木(片柳)と繋がりはあるだろうか?
この辺りも河越荘だったのだろうか?
入間川も、昔とは流れも、そして名称も変わっているかもしれない。
今の「越辺川」も鎌倉時代には「入間川」という名であったかもしれない。
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東国にいたはずが、地頭として派遣された丹波国・因幡国の地で、その周辺で暮らさなくてはならなくなった。
が、常忍は千葉氏の執事としてと帰ってきているのである。
経久は、東国か、近江か、に帰ってきていると思う。
因幡国冨城郷には誰もいなくなっていた…それで、仕えていた面々が不安になってか、宇倍神社で働くようになってしまっていたようだ。
これからは、しばし
冨城中太の軸足を大中臣にして、調べてみようと思う。
大中臣の中原氏、九里氏であったと仮定してみようと思う。