『尊卑分脈』によると、宇多天皇の皇子・敦実親王の息 源雅信から、扶義~成頼~義経~経方~季定(為俊)と続いて近江源氏の佐々木秀義、佐々木定綱の系につながっていく。
これに対して「佐々木宮神主」と注記された、季定の弟である【行定】の系は「本佐々木」と呼ばれて、佐々木秀義・定綱とは「一族にあらず」とされていると【吾妻鏡】文治一年一〇月一一日条に書いてあるそうである。
後者の系は宇多源氏の系ではなく、古よりの在地豪族や佐々貴山氏の系の人々である可能性が高いということとなり、本来はつながらない系図をつないでいるのかもしれない。
名前だけを見ると、為俊は為義から一字いただいたかな…?という気がし、秀義も義を為義からいただいたかな~という気がする。
秀義の母親は、為義の姉か妹となる女姓である。
ということは季定の妻が為義の姉か妹ということである。
さらに不思議なのは、季定の息一人であるにもかかわらず、秀義は為義の猶子となっていることである。
他に子はいなかったようである。
また、経方の子達である季定と行定他が別の系とすると、経方の子=季定とすると、他の行定他の系には、またそれぞれの在地豪族の父親がいたのかもしれない
ただし、他の兄弟~行定・行実・家行・行範のなかで、【家行】だけは、本当の兄弟かもしれない。なぜなら初名が【行俊】という。中屋冠者で、愛智四朗大夫である。
愛智郡愛智川村に住んでいたそうだ。
中原成行と関係がありそうである。
追記&訂正
秀義…兄弟おりました。私の見ていた系図は省略されているものだったらしいデス。スミマセン。