以前の記事のどこかにある「その子実経が平頼盛との関係から平家方となり…」と云う部分が、
近江国でも平頼盛の裔と朽木荘との関係があったので引っかかった。
長田資経や実経は頼盛の家司であったのか?
または、領主と地頭のような関係があったのだろうか?
少々遠回りになるが、中原清業が平頼盛の郎党であったはずなので、そこから調べてみようと思う。
どうも長田氏と中原氏が同じような立ち位置にいたような気がしてならないのだ。
↓
「八条女院の家司は平頼盛であり、中原清業はその頼盛の後見侍または郎従」と言われていたそうである。
【四国・九州地方の荘園】 網野善彦, 石井進, 稲垣泰彦著より
歴博のデータベースには「預所対馬前司清業(平頼盛家人中原)」も見える。(球磨郡人吉庄)
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/292cda4c171b09e91c5dab2ae0a40cfc
近江国高島の朽木氏の経氏は頼盛の裔河内顕盛の養子となるのである。(下記のアドレスに系図があります。)
https://myagi.jp/ja/html/travel/travel58.html
高信―頼綱…
頼綱は永田胤信の兄のことである。
中原清業は坂上氏からの出であり、坂上清重の息である。
坂上職実 | 実重 | 重盛 |
重盛の子豊前介清重は乳父主計允定清の養子となり、中原氏を称した。
子孫は白川院以下の北面の武士として仕え、・・・
清業は播磨国目代として文治二年から文治五年迄 任についていた。(1186-1189年)
この頼盛の中原氏周辺と朽木とのつながり、
更には因幡国での長田氏・出雲国での長田氏
近江国の経方から高信以降までのつながりと、
どこか引っかかるのである。
更に、細かく見ていくと、
坂上氏と墨田保周辺、(藻原)
清業と藤原実明とのつながり(丹波国室尾谷観音寺の寄進の件)
…等々、みな其のライン上にある。
八条院領の主「暲子内親王」と平頼盛は‥‥
「池大納言平頼盛は八条院乳母子を妻として女院の官人となっていた。」とwikipediaにもある様に、すぐ側にいる人物であった。
その頼盛の配下にいたのが中原清業であり、また長田資経・実経でもあった訳である。
だからこそ、藤七資家を源頼朝につけて伊豆迄、おくりとどけることもできたのであろうと思う。
出雲国・石見国・因幡国における「八条院領」の場所は、近くの図書館が復活してからになりそうである。(只今改修中で‥‥予約しても遠くまで取りに行かねばならず)
久利氏から調べても、九里氏から調べても、同じようなところに帰着する。
中原清業の「清」も、清原っぽく、しかも藤原親光が帰国したために対馬守を追われ…
また、藤原実明の許で目代を務めていた事もある。
中原経久蓮忍入道が河守御荘地頭である時に、室尾谷観音寺に寄進するのだが、其の寄進先に藤原実明の息蓮乗がいた事、等々、今までため込んでいた一つ一つのピースが生かされてきたようなのだ。
過去に調べた「紀氏のルーツ」さんのページより復習すると…
紀盛宗下野守の娘(紀朝臣成高の後裔) 経方の妻とあった。更に行実の妻にも紀盛親の娘(奥津島に在住?)を娶っている。
思えば、日牟禮神社も武内宿禰も関係していたか?
周辺に紀氏がたくさん存在していたのだ。
更に新屋氏と新谷氏が同じ一族であるかもしれず、こちらも調べてみる必要が出てきたようである。紀盛親の娘が妻である。
また、敏満寺の神官職に「新谷氏」がおり、久徳氏が妻となっている一例があったのだが、この「しんがい」氏も「あらや」「しんや」とも読める。
ここが同族となれば、久利・九里・久徳も一族の可能性がアップするのではないかと思っている。
井上三郎大夫行実―井五郎行方―新屋源太行景―五郎景頼―八郎景綱