九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

志都美神社 と 刺田比古神社

2020-05-27 | 片岡氏


片岡家と関係のある 志都美神社
http://www.y-tohara.com/nara-situmi.html

当社を創健したという片岡綱利(綱俊とも)の生没年・経歴等は不明だが、拝殿脇の案内(上記案内とは別)には「大職冠藤原鎌足六世の孫」とあり、奈良県史所載の藤原家系図に、
  鎌足(大職冠)--不比等--武智麻呂(南家)--豊成--綱継(縄麿とも)--綱利 ・・・→片岡家
とある藤原南家に連なる人物で、父・綱継以降当地一帯を所領して片岡を名のり、その子・綱利が所領地の鎮守(片岡家の氏神)として創建したのが当社であろう。

なんとここでも藤原南家につながっていた。

「◎虎列拉(コレラ)祈念碑
 拝殿横の案内に
 「明治12年(1879)8月コレラが流行適行し、氏人が氏神に侵入防止を祈願した結果、ひとりの患者も出なかったのを喜んだ人々が感謝の意味で本殿背後の石垣に、
  『明治十二年八月虎列拉病流行氏人祈願無一人患者無人歓呼奉納』
と刻み奉納した」
とあり、本殿裏にその記念碑があるというが、本殿裏はだいぶ荒れていて気づかなかった。

 因みに、わが国でのコレラ流行は文政5年(1822)・マカオから入ったのが始まりで、明治に入ってのそれは、同10年(1877)9月の横浜での流行にはじまり、予防治療法が一般に知られていなかったことから、コレラ除けのために、神仏の前で護摩を焚いたり、赤紙に牛の字を三つ書いて門口に張ったり、厄神送りなど、コレラの流行は外からやってくる厄神・コレラ神の仕業として、それを神仏の力で押さえつけたり村外に送り出そうとするなどの騒動があったという(明治13年までの患者数16万8千人・死者数10万人という)。
 当地の人々が当社に祈願したというのもその一つで、外からくる疫病神(コレラ神)の侵入阻止を神に祈ったのであろう。」とある。


===*===

やはり片岡と関係のある 刺田比古神社

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BA%E7%94%B0%E6%AF%94%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E7%A4%BE

和歌山県和歌山市片岡町



コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 千葉氏の中の【原氏】 【藤... | トップ | 千葉氏の中の【原氏】(2) »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (kunorikunori)
2020-05-31 21:13:56
りひと様
「飽」のこと、書かれていませんでしたか?
出てきました。
粟飯原の苗字の元でした。
返信する
Unknown (りひと)
2020-05-29 17:45:50
志都美神社って香芝なんですね。私香芝のファンなのでちょうど別件で思い出したんですよね。
でお水で目がとか住吉っぽいとかそして武烈でしょ!
まさにとっても揃っちゃってますね。でコロナ知恵得られたらありがたいですよね。石清水って奈良の集落発展の歴史の中でもかなり古いんですよ。その脇も古くから集落あったんで歴史は刻んだ方々が奈良に香芝とも関わっていたんでしょうね。

もう一個の和歌山の刺田比古神社ですけど、道の祭神さんいますから完璧ですね。さるたひこでも音一つ違いでもありますね。刺ってので一族見えてきそうですよね。
で大伴氏なんですけどコレがまた難しいんですよ。道の関係者とは確かに縁あるんですけど大伴は私の相性では合う合わないが若干あります。境内社やお祭りの日から考えると勢至菩薩が思い浮かぶました。コレは藤太や将門とも関係ないわけなさそうに思いますからここもかなり気になりました。

そうそう片岡さんも梨田監督も本当無事でよかったです。梨の関わる地も最近出てくる事多いんですよね。出雲系も関係しそうなので富系も関わるんじゃないかな?阿弥陀三尊で考えると勢至菩薩と観音菩薩とで阿弥陀さんが真ん中。富真ん中っぽいですよね。バランス大事なのでどちら方向にも引っ張られ過ぎず絶えずバランスで戻ってこれるようなスタンスだといいかなあ。

昨日TVで月山富田城やっていましたよ。トダでも尼子氏も気になってきました。避けていた一族ですけどいよいよ調べる事になりそうです。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

片岡氏」カテゴリの最新記事