加賀美遠光は源義光(新羅三郎)の孫である。
という事は、頼義・頼信・満仲と遡ることができる。
源頼信は石見国国司であったことがあり、その目代には清原氏がいた。
頼信が歿した後のことだが、久利氏も石見国にいて、清原氏が久利氏となったという事であった。
頼信の母は、藤原元方か致忠という事で上総国にいた藤原黒麻呂の裔菅根の息か孫の娘という事になる。
そして、其の源義光の娘が近江国の佐々木氏となる平為俊に嫁いでいるというのだ。
その息は秀義なのだが、ほかに養子がいた。
佐々木哲先生のメルマガによると、
藤原秀郷流の公行の玄孫公俊が、経頼の兄成頼(四位中将)の曾孫検非違使為俊の養子になっている。
秀郷流藤原氏公行と佐々木となる源経頼、この二人は仕事上も近く、日頃から仲が良かったようで、経頼の兄弟の成頼(89歳まで生きていたようだ)の曾孫の養子に公行の玄孫公俊がきたという事になる。(一説には公俊の息公経が為俊の養子となっているとある。)
其の為俊(=季定)の妻が源義光の娘。
そして義光の裔に加賀美遠光、南部光行、…裔に野田氏となる。
以前書いた記事をピックアップすると、
藤原秀郷流の蒲生氏と佐々木氏
蒲生氏と野田氏
知時(千時)(蒲生氏・近江長野氏(近江多賀氏)・近江佐々氏の祖)
佐々氏
佐々良輝(権僧都)の代に佐々木氏(近江源氏)の嫡流の六角氏の郎党となった。
直系に近江多賀氏があった。
公行の兄弟脩行は近江に留住して近江掾となり、近藤氏の祖となっている。秀郷流藤原氏を名乗る蒲生氏は近江国蒲生郡から甲賀郡にかけて勢力を張っており、また蒲生氏が平安末期から鎌倉期に「俊」の字を通字とすることから、この高年(高俊?)の子孫と考えられる。
蒲生氏の娘が佐々木定綱の側室になっていることでも、秀郷流藤原氏を名乗る蒲生氏が早い時期から宇多源氏の郎等であったことが分かる。