戦国大名佐々木氏の基礎研究(著 村井祐樹)の中に野田氏について少しだけ書かれていたので書き留めておこうと思う。
『・・・一方、この頃の東寺側の訴状には野田五郎左衛門なる者の濫妨停止を求める訴状が頻出し、最大の問題が野田の排除であることがわかる。(野田の資料上の終見は応安七年である。)
この野田氏は守護被官であり、成就心院側も守護方の人間を語らった上でこの相論に臨んでいたことがわかる。…(近辺に野田という地名がある。)』
上記の本の中に「佐々木備中大夫判官家人野田五郎左衛門入道」とある。
この備中大夫判官とは 佐々木氏頼のことと思われるのだが、微妙な時期で 応安三年六月の記録である。
応安三年の六月とは氏頼が歿した時なのだ。1374年
その後、氏頼が家督を息義信に譲ったのが、1351年で、義信がまだ二歳か三歳の時となる。
そのために山内信詮(定詮)が近江守護となっていた。←一時的であった。
後に氏頼は近江守護に戻っている。
東寺百合文書で野田五郎左衛門入道の記載を調べると、貞治3年9月18日(1364年)から見える。
九里と共に出ている文書はなかったが、伊庭氏と共に出ている文書はあった。