紀氏という視点から、もう一度「九里を見直す」。
以前気になっていた「八坂」「九里」も今ならわかるかもしれない。
北野社家日記
明応二年 1493年 のことである。
この西洞院時顕の下で働いていたのだろうか?
それとも瞬発的に同行しただけなのだろうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%AE%B6
西洞院家には飛鳥井家から養子に入ってもらっており、朽木氏は飛鳥井家から室を迎え入れている。
西洞院家が平氏が祖である点も、注目。
「高棟王流・桓武平氏の流れをくむ公家。高棟王から17世の孫にあたる南北朝時代の正三位参議・西洞院行時(1324年 – 1369年)を祖とする堂上家。家格は半家。」とある。
九里の祖ダイレクトの系は「平氏」の家司だったような気がしているので、これもありそうである。
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九里伊賀守が飛鳥井家の下で働いていた?
明応九年に九里員秀が蹴鞠の秘伝を飛鳥井雅康頼もらい受けている。
飛鳥井宋世=雅康
室町後期の歌人・公卿。飛鳥井雅世の次男。雅親の弟。名は雅康。号を二楽軒・二楽院。法名を宋世。家伝の歌学、蹴鞠を伝え、書道二楽流の祖となる。権大納言正二位に至る。『新撰菟玖波集』に歌を収め、また著書に『歌道鈔』『富士歴覧記』等がある。永正6年(1509)歿、74才