万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

エルサレムの帰属と普遍神の問題-神はユダヤ教徒もイスラム教徒も罰する?

2017年12月23日 15時23分56秒 | 国際政治
エルサレム問題 地位変更は無効 国連総会で決議を採択
 アメリカのトランプ政権がエルサレムをイスラエルの首都として承認したことから、国連レベルのみならず、現地では、ユダヤ人とパレスチナ人との間の衝突も報じられております。宗教紛争が再燃する気配もありますが、この問題、神とは何か、という本質的な問題を問うてもいます。

 この問題と関連して、マックス・ウェーバーは、『古代ユダヤ教』において、混成民族である“ユダヤ人”の戦時における守護神でもあるヤハウェの普遍神への昇格過程を描き出していることは、注目されます。ユダヤ教も、その初期にあっては、一神教ではありながらも、必ずしも普遍神ではなく、「モーセの十戒」に見られる“汝は私以外の何者を神としてはならない”とする神の言葉も、古代の多神教世界にあって、“多数の神々の中から、自らのみを選べ”とする意味にも解されます(恐らく、‘ユダヤ人’を構成する混成民族それぞれが別の神を信じていた)。

やがてユダヤ教においてヤハウェの地位が普遍神へと高められてゆくにつれ、神は、全ての人類に対して公平、かつ、公正な神へとその性格を変えてゆきます。おそらく、その要因は、『聖書』を構成する諸本のうち、‘天地創造の神’が描かれている「創世記」の部分がシュメール由来であり、‘天地創造の神’とヤハウェ信仰とは別系統であり、普遍神に近い存在であったからなのでしょう。アブラハムが、シュメールの都市、ウルの出身であったことから、ユダヤ教において習合が起きたと推測することができるのです。その結果、ユダヤ人自身も、神の啓示に反した行為を行った場合、厳しく罰せられる立場へと転じ、神は、無条件にはユダヤ人を守護しなくなるのです。

 この変化において登場してくるのが、イスラム教です。『コーラン』の「夜の旅の章」は、エルサレムがイスラム教の聖地ともなる根拠とされていますが、マホメットがこの地で神から啓示を受けたとされるのも、『旧約聖書』の“神”がユダヤ教の独占物ではなくなり、普遍化したからに他なりません。しかしながら、イスラム教における神、即ち、アッラーも、全ての人類に対して公平なる普遍神へと純化したとは言い難く、異教徒に対する迫害や排斥は神の名の下で許されているのです。

 中東の地では、宗教紛争の結果として夥しい数の人々が命を落としていますが、両宗教とも、“神”を普遍神と位置づけながらも、自らの集団のみに特別なご加護を与える守護神として捉えています。守護神とは、特に戦争において“霊験あらたか”であることが期待されますので、敵味方が同一の神に勝利を願うという奇妙な構図も発生するのです。ヤハウェもアッラーも戦争神としての性格さえ帯び、それ故に、泥沼の宗教対立から抜け出すことができないのです。

そして、ここで考えるべきは、真に普遍的であり、善なる神が存在するならば、ユダヤ教徒もイスラム教徒も、その行き過ぎた利己的他害性によって、共に神から罰せられる立場となり得ることです。エルサレム帰属問題を機に、両宗教共に、神の普遍性、そして、善性について深く考えてみるべきではないかと思うのです。

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コメント (2)
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