万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

オリンピック開催の費用対効果への疑問

2018年10月05日 11時08分47秒 | 日本政治
東京五輪パラ経費、総額3兆円か 国支出8千億円と検査院
2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まった時点では、その総予算は凡そ6000億円程度と国民に説明されていました。ところが、蓋を開けてみますと、驚くべきことに、国と都を併せた総額は3兆円にまで膨れ上がるというのです。国土交通省をはじめ、各省庁がこぞって関連予算を要求しているそうですが、仮に、はじめから財政負担が3兆円と分かっていれば、国民の多くは東京開催に反対したことでしょう。
 
 財政負担問題が持ち上ったのを機に、ここで原点に返って考えてみるべきことは、オリンピックの費用対効果なのではないかと思うのです。オリンピックとは、平和の祭典として機能した古代ギリシャのオリンピックとは異なり、今や、商業ベースの国際イベントの一つに過ぎません。興行であるならば、他のプロスポーツと同様に民間任せで構わないはずなのですが、オリンピックだけはクーベルダン男爵の提唱により、騎士道精神にも遡るスポーツマンシップの国際的育成プロジェクトとして創設されたため、サマランチ会長によって商業・利権化した後も、開催国の政府も関わるという特別の立場にあり続けています。言い換えますと、費用対効果の問題は、公的支出=国民の負担が政策効果=国民の受益に繋がるのか否かの問題を問うていることとなります。

 この観点からオリンピックをみて見ますと、少なくとも大会の開催に時期に限定すれば、その主たる効果は、国民に対する国際スポーツ大会の直接的な観戦機会の提供です。つまり、政府による娯楽の提供であり、この点は、古代ギリシャのオリンピックよりも古代ローマ帝国の‘パンとサーカス’うちの‘サーカス’に近いかもしれません。もっとも、現代オリンピックの場合、実際にスタジアムや競技会場において観戦する国民はチケット代を払う必要がありますので、無償であった古代ローマの時代よりも公益性は低くなります(テレビ等の中継は全世界に配信されるため、開催地の利益にはならない…)。しかも、事業収益の多くは、興行主であるIOCの懐に入るでしょうから、国であれ、地方自治体であれ、開催地の財政を潤すことはないのです。

 その一方で、開催国メリットとしては、「1964年東京オリンピック」がモデルとされる、オリンピック開催を機とした先進国化効果がしばしば指摘されています。しかしながら、このモデルも、中国や韓国といったアジアの一部に限られており、日本のように交通網が一先ずは整備されており、かつ、既存の競技場が使用可能な「2020年東京オリンピック」でさえ3兆円もの財政支出を要するのであれば、新興国の開催地のハードルはさらに高まります。こうしたインフラや施設等の建設費用は、政府や地方自治体の持ち出しですので、この面でも費用対効果は費用が上回ることでしょう。もっとも、都市計画上に必要となる交通網の整備等は、基本的にはオリンピック開催とは無関係ですが、着工時期が早まるといったメリットはあるかもしれません。

加えて、オリンピック・グッズ等の販売効果は、IOCにライセンス料を支払った一部の民間企業に集中しますので、オリンピック・ビジネスの波及効果も限られています。否、オリンピックを連想させるデザインを用いただけでも、即、撤去の要請を受けるそうですので、権利侵害行為として賠償金を支払わされるリスクさえあります。宿泊や訪日による観光収入もまた、開催期間に限定されている上に、当然に民間の観光業者等の事業収益となります。つまり、政府も地方自治体も、民間事業者の増収増益による納税額が増えることのみを期待するしかないのです。

以上に主たる点を検討してみましたが、費用対効果からしますと、費用の面では、明らかに公的負担=国民負担が重い一方で、効果については、一般国民と関連事業者との間には違いがあるものの、全般的には負担を下回るように思えます。そして、何よりも、二十日足らずの僅かな開催期間の楽しみのために、3兆円もの公費を支出することには、国民自身が首を傾げてしまうかもしれません。同じ3兆円があるならば、本庶佑教授をはじめノーベル賞受賞者の方々が口々に指摘されておられるように、技術立国としての日本国を維持・発展させるべく、基礎研究に予算を注ぎ込んだ方が、余程、国民一般にその成果の恩恵が広く均霑されるのではないかと思うのです。

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