万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

天皇の靖国神社参拝こそ正論では-日本国民に対する慰霊

2018年10月12日 11時12分36秒 | 日本政治
靖国神社につきましては、小堀邦夫宮司が週刊誌に掲載された自身の発言の責をとり、その職を辞されたことで俄かに関心が高まっております。辞任の理由となった発言とは、“天皇陛下は靖国を潰そうとしている”というものであり、現状を憂いた同宮司の積年の思いが、厳しい言葉として口を衝いて出たのでしょう。

 靖国神社の問題を考えるに当たって、まず優先的に考慮すべきは、同施設が、戦場で自らの命を国に捧げられた日本国民の魂を慰める場として創建されたと言うことです。一神教の神と日本国の多神教の神との間ではその性質において違いがあり、靖国神社に対する誤解の元となったり、あるいは、中国や韓国などからは戦争の記憶や国民の反日感情を理由に公人の参拝が常々批判されますが、その原点に立ち返れば、人類普遍の慰霊行為に他なりません。

そして、とりわけ戦死者に対する厚い慰霊が何故必要になるのか、と申しますと、それは、戦地に赴き戦場で武器を手にとって戦うと言うことは、人にとりましてあまりにも過酷で苦悩に満ちた行為であるからです。自らが殺されるか、相手を殺すかの選択を常に迫られるのですから。戦地にあって、真の心の安らぎなど、あろうはずもありません。

 凄惨を極める戦場に臨む人々の心情を慮りますと、靖国神社の存在意義を無碍に否定はできないように思えます。この点に関連して、昨日、NHKのテレビの番組で、現代の日本社会で広がりつつある興味深い埋葬方法を紹介しておりました。それは、‘骨仏’と称される埋葬方法であり、遺骨をお寺の御堂に安置された仏像の体内に納めて供養してもらうという方法です。この方法であれば、身寄りのない人でも、自と一緒に納骨されている誰かの縁者がお参りに来て拝んでもらうことができます。多神教の日本国ならではの発想なのですが、同番組は、‘骨仏’を選択した人は、死後に自らの魂が永遠に慰霊されるという安心感を得て、残された命を前向きに生きてゆく自信を得ることができると報告しています。死後にあって安らぎの場が予め用意されていることは、直面している精神的な不安や苦痛を取り除き、死への恐怖を和らげる作用が認められるのです。

 おそらく、戦前・戦中にあって靖国神社は、現代の‘骨仏’と同様に、その魂の鎮まる先をしつらえるという役割において、明日の命も知れず、また、遠い戦場にあって死と向き合った将兵の方々に対して、大きな心に安らぎと慰めを与えたことでしょう。そして、遺族も含めた多くの人々が靖国神社を訪れ、慰霊のために祈りを捧げることこそを、自らがこの世で精一杯に生きた証としたかったのかもしれません。戦争自体は無いに越したことはありませんが、当時にあって、多くの日本国民が、大義を信じて国のために命を捧げています。‘天皇陛下万歳’と叫んで散華された方も少なくないはずなのです。

国のために自らの命を犠牲にした日本国民の魂に対して、国が背を向けてもよいのか、と申しますと、これは、人類の普遍的な道義的に照らしても国家の責務に反しているように思えます。この文脈においては、天皇の靖国神社参拝こそ正論なのではないでしょうか。左翼の人々は、天皇の戦争責任については激しく糾弾しますが、天皇の国民に対する責任を問うならば、歴史的な天皇の存在意義である国家祭祀の長として、国民慰霊のための靖国参拝こそ強く主張すべきなのではなかと思うのです。

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コメント (6)
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