先日、岸田内閣において、新しい資本主義を具体化する方策として、’スタートアップ担当相’なるポストの創設を検討しているとの報道がありました。近年、アメリカをはじめ他の諸国と比較して、日本国内におけるスタートアップの起業数が少ないことを懸念した政府が、国内におけるスタートアップを支援しようという試みのようです。しかしながら、このスタートアップ担当相の報道、悪い予感しかしないのです。
そもそも、’スタートアップ’なる用語は、IT関連分の事業分野で頻繁に使われ始めるようになったものです。一般用語としての起業やベンチャー企業等ではなく、敢えて’スタートアップ’という用語を使うのは、政府が、ポスト新設をITやAIといったデジタル化政策の一環として捉えているからなのでしょう。しかしながら、起業とは、デジタルといった先端産業の分野に限られたことではありません。全ての事業分野にあって起業には、人々のニーズに応える、人々に新種の製品やサービスを提供する、独創的なアイディアを現実の経済に活かす、経済の新陳代謝を促す、新たなテクノロジーを収益性と繋げる、あるいは、店舗の開設で自らの‘夢’を実現するといった多面的な経済効用があります。‘スタートアップ’と命名した時点で、‘政府主導型のIT産業育成’という中国との類似性が見受けられるのです(国民監視・管理テクノロジーとしてのIT?)。あるいは、ムーンショット計画のように、カルトじみたメタバース社会の実現を目指したいのかもしれません。
また、既に日本国政府は、海外事業者に対して市場開放を進めてきましたので、支援対象となるスタートアップは、日本人が起業した企業であるとは限りません。日本国の法律に基づいて会社登録された企業であれば、事業者の国籍は問われないこととなりましょう。否、岸田首相は、外国人留学生を日本の宝として歓迎しておりましたので、この発言からしますと、スタートアップへの支援も、海外出身の事業者を優先するかもしれません。特にITの分野では、日本人技術者の不足や能力への懸念が指摘されてきましたので、海外から有望なスタートアップ参加者を招くことが、日本国政府の真の目的であるのかもしれません。
第3に指摘し得ることは、スタートアップへの融資や補助金が制度化された場合(基金を設けるなど…)、新たなる政治利権となるリスクです。政党や政治家とのコネクション(所謂口利きというもの…)の有無が支援対象事業者の選定に影響を与えるとすれば、名称だけは響き良く新しくしただけで、それは、古い利権政治への回帰、あるいは、悪化に過ぎないのかもしれません(共産主義国家の計画経済も、結局は、共産党員が利権を独占するコネ経済に堕してしまう…)。
そして、極めつけとも言えるのが、今年末頃に支援政策全体の骨組みを示すために、岸田政権が、「五か年計画」の策定を予定しているとするくだりです。「五か年計画」という文字を見ますと、頭がくらくらしそうです。何故ならば、「五か年計画」という言葉は、ソ連邦といった共産主義国家が計画経済を実施するに当たって使われてきた歴史があるからです。これまでも、政府は、しばしば’工程表’なる、どこか共産主義風味の用語を使ってきましたが、「五か年計画」という表現には、’工程表’以上に政府主導型経済への移行への道筋が見えてくるのです(政府は、個々の自由な経済活動に基づく自律的、かつ、自由な経済発展を望んではいない…)。
曖昧とされてきた岸田内閣が唱える’新しい資本主義’の正体とは、’古い社会・共産主義’であったのでしょうか。あるいは、資本主義と’古い社会・共産主義’とを融合させた形態が、’新しい資本主義’というものなのでしょうか。因みに、資本主義と共産主義とは、その実、表裏一体であるとする説があります(共産主義革命は、ロスチャイルド家などを中心としたユダヤ系金融財閥によって計画・実行されたものであり、資本主義国も共産主義国も、結局、同勢力の手のひらの上で踊らされている…)。’スタートアップ相’という名称は、いかにも自由主義経済をイメージさせつつも(資本主義と市場主義並びに自由主義経済は別物…)、国民は、本来は私的存在に過ぎない超国家権力体によって仕掛けられた政治・経済の一元化(全体主義…)、あるいは、人々の思考を一定の方向に追い込む二頭作戦の罠を疑うべきではないかと思うのです。