万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

支配装置としてのメディア・芸能界支配の問題

2022年07月21日 10時52分32秒 | 国際政治
 アメリカ映画には、1941年に公開された『市民ケーン』という作品があります(オーソンウェルズ監督・主演)。ハリウッド映画には、見る人が見ればわかる、風刺、あるいは、暴露的な要素が強いのですが、同映画も、ウイリアム・ランドルフ・ハーストという実在の新聞王をモデルとしており、同氏が映画上演を妨害したことでも知られています。

極寒の地の小さな下宿屋に生まれた主人公のケーンは、親がひょんなことから金鉱の権利書を手にしたことからニューヨークの銀行家サッチャーの元で養育され、長じて37もの新聞社と二つのラジオの所有する大富豪となります。やがて、大統領の姪を妻としたカーンは、市民の味方を装って大衆受けする公約を掲げてニューヨーク州知事選挙に立候補するものの、ライバルである現職知事がスキャンダルを暴露したことにより、落選の憂き目を見ます。その後、大統領の姪とは離婚してスキャンダルの原因となった歌手スーザンと再婚し、自らが支配する全メディアに‘よいしょ記事’を書かせ、大々的にスーザンを売り出すのです。結局、スーザンは精神を病むにいたり、利己的なカーンをなじって彼の元を去るのです。

ちなみに、カーンのモデルとなったハーストは、新聞王にして、下院議員を務めるとともにニューヨーク市長選にも当選した政治家でもありました。私生活にあっても、パトロンとなった歌手を、自らが所有するメディア並びに財力を持って大スターへの階段を上らせようとしました。1906年のニューヨーク州知事選には落選するものの、今日でも、ハーストのメディア事業は、ハースト家が社主として経営しているハーストコーポレーションに引き継がれています。新聞部門はアメリカ国内が中心ですが、雑誌部門では、『コスモポリタン』、『マリークレール』、『セブンティーンズ』などの雑誌が海外展開しており、日本国内でもこれらの雑誌名を知る人は少なくないかもしれません。

1940年代の作品とはいえ、同作品で描かれている富裕者、政治家、メディア、芸能界との基本的な関係は、今日でも当時とさほどには変わりはないのでしょう。大富豪がメディアを所有し、その影響力をもって政治権力をも手にすると共に、芸能界をも支配しようとする基本的な構図は、そこかしこに見られます。

メディア支配の動機は、情報というものの重要性を考えれば容易に理解されます。今日、中国が最先端のITを用いて徹底的な情報統制体制を敷いていますが、‘情報を制するものは世界を制する’からです。新聞社といった情報提供機関は、報道に先立って、自らの判断で内容を取捨選択し、悪質な場合には改竄したり歪曲し得る立場にあります。また、記者たちが、根掘り葉掘りあらゆる情報を収集しようとしても、誰もが取材と思い疑いません。情報化社会を迎えた今日では、IT大手がこの立場を半ば得ているのでしょう。誰よりも早くに情報を手にし、あわよくば情報を操作したい者にとりまして、メディア支配は、あらゆる面で極めて有利なポジションを得ることを意味するのです。

それでは、何故、芸能界も同関係図に入っているのでしょうか。おそらく、それは娯楽である故に、反発を受けることなく人々を自発的に一定の方向に導くことができるからなのでしょう。あるいは、「パンとサーカス」の路線からすれば、政府や政治家に対する民衆の不満を紛らわすための、‘サーカス’を提供する役割を期待しているのかもしれません。民衆が‘サーカス’に熱中している間は、その興行主である大富豪も政治家も安泰です。また、人気のある芸能人と自らが一体視されれば、拍手喝采を浴びてヒーロになることもできます。つまり、自らの傘下にあるメディアを上手に操作すれば、芸能人の人気を自らの地位の安定のために利用できるのです。もっとも、架空のカーン氏や実在のハースト氏のように、巨額の‘投資’にもかかわらず、人々が踊らずに思い通りにはいかないこともあるのですが・・・。

今日、各政党とも、選挙に際して積極的にタレントを候補者として擁立するのも、それが有効な政治的目的を達成するために効果的であるからなのでしょう。そして、随分と回り道をしてきましたが、この芸能界支配の問題は、新興宗教団体の問題とも繋がってきます。芸能界には創価学会員が多いことで知られていますが、政府広報やNHKにあって創価タレントの起用が目立って多いことは事実です。おそらく与党公明党の意向なのでしょうが、政治と芸能界の関係には、娯楽を介した国民誘導、あるいは、支配という目的が透けて見えるのです。しばしば、ネット上では、‘○○押し’にうんざりする、という批判がありますが、これは、実力や実際の人気と、当該タレントが起用される頻度との間の不自然なギャップを表していると言えましょう(背後に何者かの意向が腹炊いている?)。

また、かつて日本国で流行った韓流というものが、自然発生的なものであったとは思えません。何故ならば、何らの背後の意図もなく、韓国の芸能人が日本国内で爆発的な人気を博するとは考え難いからです。『冬のソナタ』なるドラマが発端となったとされていますが、同ドラマの内容からしますと、熱烈的なファンとなるのは中高年の女性に限られています。それにもかかわらず、全国的な広がりを見せた背景には、組織的な宣伝活動があったと推測せざるを得ないのです。この現象にも、政治サイドによる後押し、並びに、韓国系の旧統一教会、あるいは、創価学会による信者動員が疑われましょう。

 ‘韓国押し’は芸能界に限ったことではなく、日本国内のウィキペディアでも言語版の選択にあって、どうしたわけか、デフォでハングルが表示されています。『市民ケーン』でも、映画の序盤にあってケーンの死去を伝える日本の新聞が映し出されるシーンがあり、その新聞名は韓国の新聞紙である『中央日報』となっているそうです。謎が謎を呼びますが、不自然な現象の背景には、何者かによる組織的な世界支配の戦略を想定する方が、余程、説明がつくのではないかと思うのです。

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