万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

組織論から見れば‘縦割り行政の打破’は改悪では?

2023年06月08日 12時53分56秒 | 統治制度論
 組織の健全性と発展性を確保するためには、決定、実行、制御、人事、評価の各機能を分立させ、これらの役割を担う複数の機関が相互に自らの任務を独立的に遂行できるように制度設計する必要があります。この観点から見ますと、現在、‘縦割り行政の打破’を掲げて日本国政府が推進している行政改革の方針は、改悪となるリスクがありましょう。

 ‘縦割り行政’の批判点とは、現状にあっては、複数の省庁にわたって同様の権限を持つ機関や部署が分散しているため、政策の決定並びに執行に当たって混乱が生じたり、一貫性の欠如が起きやすく、また、迅速な対応を要する場面にあっても後手になりやすいというものです。諸機関の並列的な乱立に帰因する統治システムの機能不全を打開する策として、‘縦割り行政’の解消が主張されているのです。

 凡そ同様の権限を有する機関が併存しているのですから、これらを一つに統合し、政府に直結する形で統合するという案に対しては、多くの人々が思わず納得してしまうかもしれません。昨今、報じられている国立感染症研究所と国立国際医療研究センターを国立健康危機管理研究機構に統合するという日本版CDCの設置も同文脈から説明されましょう。もっとも、同機構の設立に先立って、内閣官房に内閣感染症危機管理統括庁が新設されますので、首相を頂点としながらも、内閣府系と厚労省系の二つの機関が並立する形となるようです(何故か、少なくとも日本版CDC法案には両者の関係が記されていない・・・)。何れにしましても、コロナ禍の教訓を根拠として、政府は、公衆衛生分野における集権化を目指しているのです。

 しかしながら、この方針には、重大な疑問があります。それは、平時にあって有事の体制を常態化しなければならないのか、という問いです。冒頭で述べたように、望ましい組織とは、決定⇒実行のトップ・ダウン方式ではなく、制御、人事、評価の各機能が適宜に働く仕組みを持ちます。複数の機関が関わるために、一瞬、煩雑に見えつつも、後者の方がより合理的で安全です。必ずしも優秀者とは限らないトップによる即断や情報不足等による判断の誤りを回避し、より賢明で国民にとりまして安全な政策決定が行なわれるためには、独裁リスクの高い集権化よりも、役割分担を軸とした高度で精緻な分権化の方が統治の役割を果たすには適しているのです。

 ましてや学問や科学技術の分野では、多様な研究機関が分立し、各機関が独自に研究を進められる体制の方が、新たな発見や発明へと繋がる裾野を広げます。すべての研究機関が同一系統に統合されたのでは、むしろ、学問や科学技術が政治目的に従属してしまい、軍事テクノロジーのみがいびつに突出して発展したソ連邦や中国の体制に近づくこととなりましょう。今日、デジタル技術といったムーンショット計画に資する研究のみが優遇される現状は、自由主義国にあっても同様の歪みがあることを示しているのです。

 個々の自由な研究と研究の独立性なくしてイノベーションも起こりえないのですから、公衆衛生のみならず、政府が選定した特定の研究分野ばかりに予算を集中的に配分する科学技術推進政策の方向性も、多様性と可能性の保持という観点からは間違っているのかもしれません(小惑星探査機「はやぶさ」やスパーコンピュータのプロジェクトのように、政府が当初は‘無駄’と判断した研究でも、後々成果を挙げる研究もある・・・)。そもそも学問の自由の保障も、国民から委ねられた政府の役割の一つであり、良き統治機構にあっては、自由な空間が確保されていなければならないのです。言い換えますと、政府の独断や恣意性に抗い得る独立的な立場からの制御機能が働く必要があると言えましょう(現行の制度では、民主的選挙も基本的には人事機能であるため、制御機能としては十分に働いていない・・・)。

 以上に述べてきました点に鑑みますと、‘縦割り行政の打破’という政府が掲げるスローガンには要注意なように思えます。迅速性と上意下達の徹底を求めるばかりに決定⇒実行という有事体制を平時に持ち込むよりも、制度設計は、平時を基準として行なうべきなのです。しかも、緊急的な措置を必要とする場合に備えるにしても、歴史を教訓とするならば、首相への権限集中は破滅を招きかねないリスクがあります。このように考えますと、改革の基本的な方向性は、むしろ、現行の制度にあって欠けている、あるいは、弱体化している制御、人事、評価の機能強化なのではないかと思うのです。

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