万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

『羅生門』からフワちゃん炎上問題を語るとしたら

2024年08月12日 10時00分12秒 | 社会
 目下、タレントとして活躍してきたフワちゃん氏が、お笑い芸人であるやす子氏のXへのポストを引用する形でリポストしたコメントが、大炎上を起こしているそうです。批判を浴びることとなった言葉とは、やす子氏の「オリンピック 生きているだけで偉いので皆 優勝でーす」に対して投稿された、「おまえは偉くないので、 死んでくださーい 予選敗退でーす」というものです。

 この言葉、小中高等学校で起きている生徒や学生による自殺が虐めによるものが少なくない現状からしますと、あまりにも冷酷で悪意を含む言葉でもあります。自ら死を選んだ子供達の多くは、同級生達から‘死んでください’とか‘死ねばよい’といった心ない言葉を浴びせられてきたからです。軽い気持ちの発言であったとしても、言われた本人の精神的なダメージは相当です。しかも、自ら手を下すことなく相手に対して死を求めたり、相手の不幸を喜ぶような表現なのですから、どこか陰湿な底意地の悪さが感じられるのです。

 刑法上の自殺教唆や侮辱の罪にも当たりかねませんので、フワちゃん氏に批判が集中するのも当然なのですが、中には、フワちゃん氏に対して擁護的な発言も見受けられます。“やす子氏を自らに見立てた虐められた側の復讐心の現れ”とする、これもまた意地の悪いフワちゃん氏を暗にサポートする意見もありますが、ネット上には、芥川龍之介の名作『羅生門』を引き合いに出しつつ、フワちゃん氏を批判する人々を「義務教育の敗北」として嘆くネット記事もあります(SPA!Web記事)。教科書にも掲載されている同作品から、フワちゃん氏を「叩く」人々は学んでいないというのです。

 同記事は、[貧困東大生・布施川天馬]氏のよって執筆されています(ペンネームではないかと推測・・・)。それでは、『羅生門』から何を学んでいないのか、と申しますと、筆者の言葉を借りますと「人間は、たった一つの安易なきっかけで悪にも善にも染まる移ろいやすい生き物だ」ということなそうです。しかしながら、『羅生門』には、別の解釈も成り立つように思えます。少なくとも、今般の大炎上とは、いささか状況の設定に違いあります。

 第一の相違点は、羅生門にて老婆から髪の毛を抜かれている遺骸は、皆、悪人のものとして設定されています。それ故に、老婆の‘言い分’は、‘悪人に対して悪さをしても当の悪人も許すに違いない‘というものとなるのです。ところが、フワちゃん氏の炎上事件では、やす子氏は、’悪人‘ではありません。むしろ、Xに投稿された博愛主義的な投稿内容からしますと、’善人ポジション‘にあります。この構図ですと、『羅生門』とは違い、善人に対して悪を為していることとなるのです。
 
 第二の相違点は、老婆の言い訳を聞いた下人も、善人はおろか、一般の人々から物を盗ったわけではない点です。あくまでも、老婆も自らの弱い心に負けた‘悪人’であったとする認識の元で、‘悪人’の着物を奪っているのです。言い換えますと、悪人が悪人に対して悪事を働いても許される、と言う論理の範囲内での行動であり、その後、‘行方知れず’となった下人が、善人を含む一般の人々に危害を加える‘本物の強盗’になったかどうかは、分からないのです(被害者はあくまでも‘悪人’・・・)。フワちゃんの大炎上事件についても、批判した人々が、今後、自らも正真正銘の悪人となって、他者に対して‘死んでくださーい’と言い放つようになるとは思えません。健全なる正義感からの批判であれば、悪人に転落するはずもないのです。

 以上に述べた違いを踏まえますと、『羅生門』が語っているのは、人間の善性と悪性との境界の曖昧さ、あるいは、容易に悪に陥りやすい本性と言うよりも、‘悪’に直面したときに内面に生じる懲罰的な感情としての‘善’と、それを自らの悪行の言い訳としたい私的欲望としての‘悪’との葛藤なのかも知れません。自らの生命をも危ぶまれる極限状態にあっては、時にして後者が優ってしまうこともあり言えるという・・・。つまり、『羅生門』における‘悪’への転落は極めて限定的なのです。そして、もう一つ、教訓めいたものが『羅生門』に秘められているとしますと、それは、‘自らが主張する論理が自らを滅ぼすこともある‘ということではないかと思うのです。

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