万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

知られざる学徒出陣-戦場に散った高校生達を悼む

2024年08月15日 11時16分49秒 | 日本政治
 79年前の8月15日、日本国は連合国軍から発せられたポツダム宣言の受け入れを表明し、第二次世界大戦の幕が降ろされることとなりました。同戦争により、多くの日本国民の命が失われ、犠牲者の数は軍人・軍属並びに民間人を合わせて凡そ310万人にも上ります。この犠牲者の数は、日本国民にとりまして先の戦争が如何に凄惨を極めたかを如実に物語っているのです。

 かくして凡そ4年に及ぶ先の戦争は、『海行ば』の哀愁を帯びた調べと共に深い悲しみとして日本国民の心に刻まれることとなったのですが、中でも、雨が降りしきる神宮外苑競技場を学生達が黙々と行進してゆく学徒出陣の映像は、今でも多くの人々の涙を誘います。同壮行会の映像から文系の大学生が学徒出陣したものとするイメージが強いものの、出陣した学徒の中に高校生が存在したことは、あまり知られていません。

 ある時、亡き父茂の遺品の中から旧制高校の名簿(旧制東京高等学校)を見つけ、ページをめくっておりましたら、進学先が記されておらず、「○○にて戦没」と記載された生徒さんの数が多いことに気付きました。どこか不可解にも思えたのですが、この時には、高等学校在籍中に出征した生徒さん達が存在していたとは思いもよりませんでした。

 ところが、最近に至り、今から凡そ20年ほど前に刊行された『日本歴史平成15年9月号』にあって「「高校生出陣」の検証」というタイトルの論文が掲載されているのを発見し、この謎が解けることとなりました。高校生とは申しましても、今の学制とは違い、旧制高等学校の生徒ですので年齢は少しばかり上とはなるのですが、高校生までもが出征していた事実に愕然とさせられたのです。

 同論文によりますと、高校生の入隊は志願であるため、入隊率の高い学校もあれば低い学校もあり、それぞれの高等学校においてばらつきがあったそうです。それでは、どの高等学校が最も志願率が高かったのかと申しますと、それは、驚くことに第一高等学校であったというのです。

 第一高等学校といえば、全国から優秀な学生が集まり、加藤高明、若槻禮次郎、広田弘毅、近衛文麿、平沼騏一郎等総理大臣を含む政治家をはじめ、官僚、財界人、学者、小説家、芸術家など多方面に亘って人材を送り出した学校です。今日と比較して高校生の生徒数が絶対的に少ない当時にあって、同校の生徒達は、将来を約束された極少数のエリートの卵達でもありました。その一高にあって、在籍者数409名の内、119名が自ら志願して入隊したというのです。同論文の調査範囲では、一高の入隊率は凡そ29%であり、三人に一人が出征した計算になります。因みに、二高の入隊率が12.1%、松本高が16.6%、富山高が19.7%とされていますので、一高の入隊率は抜きん出ています。旧制東京高等学校からの志願者数も少なくなかったのでしょう。

 戦争に際しては、老練な政治家等の上層部は自らは安全な場所に身を置きながら、若者達を死地に送り出しているとする批判があります。しかしながら、若年層を見る限りこの指摘は当たらず、自らの死を覚悟して戦地に赴いたのは、日本国の未来を背負ったであろう才能に恵まれた若者達でした。同論文は、入隊後にあっては、学徒であったことが仇になって上官等から暴力を振るわれるなど、軍隊での生活は生やさしいものではなかった様子を伝えています。出身学校との絆や学生時代の学友達との懐かしい思い出は、一角の軍人となる上で自ら封印しなければならなかったのです。

 神宮外苑での学徒出陣の答辞には、「生等もとより生還を期せず」とするくだりがあります。この言葉通り、自ら特攻隊あるいは人間魚雷に志願し、帰らぬ人となった高校生も少なくありませんでした。当時の高校生には、エリートとしての自覚があったからこそ、身を挺して国家並びに国民の危機を救おうとしたのでしょう。西欧風に言えば‘ノーブレス・オブリージュ’の精神であり、‘選ばれし者’故の自己犠牲の精神であったことになります。

 以上に、高校生出陣について記してきましたが、今日を生きる人々は、この事実から何を学ぶべきなのでしょうか。先ずもって、戦争とは、敵国人のみならず、自らの国民をも犠牲にするということのように思われます。しばしば、日本国は先の戦争で優れた人材を失った、あるいは、戦争の場を借りて‘失わされた’とする指摘がありますが、この指摘は、強ち間違いではないように思えます。とりわけ、当時の高校生達が、自らの将来をも捨て、純粋に祖国を護りたい一心で出征を決意した悲壮な心情に思い至りますと、その勇気を賞賛するというよりも、そのけなげさが不憫でならなくなります。

 と同時に、当時の高校生達は、今日のエリートと称される人々に対して、人としての生き方を問うているようにも思えます。何故ならば、今日の‘選ばれし者’、すなわち、グローバリストをはじめとした‘セレブ達’は、他者を自らのために犠牲に供することはあっても、決して自らを他者のために犠牲にすることはないからです。ヨーロッパでも、ノーブレス・オブリージュの精神は、第一次世界大戦をもって息絶えたとされていますが、利己主義や拝金主義が持て囃される現代という時代は、エリート達が、自らの利益のために自国民を売る時代でもあるとも言えましょう。

 日本国では8月15日は終戦記念日とされ、お盆の時期とも重なることもあって、毎年、正午には黙祷が捧げられ、戦没者の方々の御魂を慰めております。もし、戦場に散った学徒達から現代に生きる人々にメッセージが送られるとすれば、それは、世界大戦の巧妙な仕組みを見て取った上での、‘今度こそ、知力を尽くし、命をかけて戦争を回避せよ’という言葉なのではないかと思うのです。

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