万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

フワちゃん大炎上事件の‘ネット民’批判を考える

2024年08月19日 09時14分55秒 | 社会
 フワちゃん大炎上事件は、人々にとりまして、善悪の判断を含む様々な問題について考える貴重な機会となっているように思えます。本日も、千原せいじ氏によるSNSユーザーに対する苦言が報じられておりました。「結局今フワちゃんを叩いてるヤツら、お前はフワちゃんと同じことをしてるからな」として。

 それでは、フワちゃん氏の発言と‘ネット民’は、‘同じこと’をしている、つまり、両者の行動は同質のものなのでしょうか。どこか理屈っぽく聞えるかも知れませんが、善悪を基準としますと、両者は、むしろ正反対と言っても過言ではないように思えます。フワちゃん氏の発言は、他者に自死を薦めたのですから、弁明の余地がありません(やす子氏が告訴すれば刑事事件となる可能性も・・・)。しかも、やす子氏のX上の発言は博愛精神から発せられていますので、フワちゃん氏のリプライは、情状の余地がないほどに悪が際立ってしまっているのです。つまり、同事件では、善悪の立場が明確に区別されるのです。

 こうした善悪の構図を前提としますと、‘ネット民’による批判は、人々の一般的な倫理観に発する悪に対する批判となります。罪に対する批判なので懲罰的な意見も当然に含まれることでしょう。こうした意見は、当事者であるフワちゃん氏にとりましては主観的には‘害’であり、自らに対する‘攻撃’なのでしょうが(刑罰は常に受ける側にとりましては‘害’である・・・)、基本的には悪意から発せられるものではないのです。とりわけ、フワちゃん氏の言葉が‘苛めっ子’の常套句であり、精神的な虐めの手段であったからこそ、より激しい懲罰意識と反発を招いたことは想像に難くありません。ここには、‘罪に対してはそれ相応の罰を与えるべきとする’常識的なバランスが働いているのです。この側面に注目しますと、メディアでは、フワちゃん氏の発言を‘不適切発言’や‘失言’とする表現で報じているものの、‘虐め発言’や‘反倫理発言’と言った方が、問題の本質を言い表しているかも知れません。

 もちろん、匿名によるバッシングに快感を覚え、便乗しているSNSのユーザーも存在しているのでしょうが、大多数の人々は、正義感から投稿しているはずです。しばしば、ネットバッシングが起きる度に、‘自分だけが正しいと信じている’とする批判を耳にするのですが、そもそも、大勢の人々の正義感を呼び覚ますような‘悪’がなければ、炎上するはずもありません。ネット上の炎上こそ、人々の道徳心や良心の現れであり、それを批判したり、封じるような発言には、疑問を抱かざるを得ないのです。仮に、フワちゃん氏の発言に対してネット空間が沈黙する、あるいは、同発言に同調した笑いが一斉に起きたとしましたら、その社会は、恐ろしく陰湿で冷酷な歪んだ世界となりましょう。他害的で悪意のある発言に対する社会的な反発は、同社会に生きる人々の道徳や倫理のレベルを示す、一種のバロメーターでもあるのです。

 以上に述べましたように、善悪の区別を基準としますと、フワちゃん氏の発言と‘ネット民’の批判は、同質とは言えないように思えます。そして、この基準からしますと、よりフワちゃん氏に近いのは、‘ネット民’ではなくむしろ千原氏自身なのではないかと思うのです。何故ならば、善悪両サイドの関係からしますと、フワちゃん氏サイドから‘ネット民’を批判する発言は、自ずと悪が善を叩く構図となってしまうからです。同氏は、SNSのユーザーに対して「ヤツ」、あるいは、「お前」とも呼んでおり、こうした他者に対するぞんざい、かつ、自らを‘上位者’と自己認識した上での言い方も、フワちゃん氏の社会観と態度と似通っているのです。

 しかも、活動休止が宣言されながら、ウェブ上では、マイナス情報であれ、プラス情報であれ、フワちゃん氏に関する記事が散見されます。こうした現状では、‘ネット民’を同氏と同列に貶めて批判したとしても、鎮火するどころか火に油ともなりかねません。フワちゃん氏に限らず、近年のマスメディアでは、一般の視聴者やユーザーから忌避されているタレント等を起用し続ける傾向があるのですが、背後に圧力団体や何者かの意向があるとしますと、この問題は、メディアとは、一体、誰のためにあるのか、という、メディアと‘ネット民’、否、一般の人々との間の根本的な関係性をも問いかけているように思えるのです。

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