万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

皇族の存在と日本国民の精神性

2024年09月10日 12時14分38秒 | 日本政治
 封建時代にありましては、主君に対する家臣の忠誠心は美徳として賞賛されていました。主君は家臣達の領地を保障し、報償や俸禄をも与える存在でしたので、家臣は、自らの命を擲ってでも主君を護るべきとされ、主君に誠心誠意奉仕する忠臣こそが家臣の鏡とされたのです。君主と領主との堅い絆は保護・被保護の関係、あるいは、非対称ながらも相互依存の上に成り立っており、家臣の忠誠心は、運命共同体とも言える同関係を精神面において支えていたこととなりましょう。

 ヨーロッパの封建制度の場合、両者の封建契約を介しましたので、家臣のモラルという精神面よりも比較的法的義務の側面が強いのですが、こうした関係は、その成立前提としてギブ・アンドテイクの関係を見出すことができます。このことは、武士道や騎士道として現れてきた主君と家臣との間の麗しい主従関係は、その成立時期や範囲において、時代や地域によって限定されることを意味します。それでは、現代の日本国民に対して、皇族に対する封建的なモラルを求めることはできるのでしょうか。

 “超保守系”の言論人による一般国民に対する不敬批判の多くは、上述した封建的なモラルへの違反を咎めるものです。その心理の根底には、戦後にあっても吉田茂が自らを臣と称したように、たとえ憲法上の実態とは違っていても、日本国の国家体制は、天皇を君主とする立憲君主体制であるとする意識があるのでしょう。このため、上述したモラルに照らせば、‘皇族の望みを叶えるのが臣民である国民の当然の務め’、あるいは、‘皇族に対する国民の批判は無礼極まりない’となり、分を弁えていない国民の側に非があることとになるのです。

 ところが、この批判が成立するには、相互的な関係を要します。この成立要件を欠く場合には、両者の関係は、上の者が下の者に対して一方的な忠誠心や奉仕を求めるものとなり、主人と下僕、あるいは、主人と奴隷の関係に限りなく近づいてしまうのです。北朝鮮のような独裁体制に喩えれば、独裁者と国民との上下関係となり、国民は、何らの権利の保障も無しに、常に前者を崇め、忠誠心を示さなければならないという不条理な状態となるのです。日本国の現状は北朝鮮ほどではありませんが、天皇が神的な霊力による国家護持の役割をもはや果たせない以上(皇族に至っては意味不明の存在に・・・)、国民に封建的なモラルを美徳として求めることは、今や下僕のメンタリティー、奴隷の‘行動規範’を持つように訴えるに等しくなっているのです。

 主人にとりましての理想的な下僕とは、主人には一切逆らわず、その命令通りに行動する従順なる従者です。その一方で、下僕の側も、自らに対する自己評価は著しく低く、常に主人のご機嫌を伺い、追従による自己保身ばかりを考えるようになります。言い換えますと、主人・従者関係にあっては、双方共が、一個の人格として自らの人間性や知力を磨いたり、社会全体を客観的に捉える能力を備える機会が失われ、精神的な成長が止まってしまうのです。さらには、皇室の権威を自らの私的な利益のために利用しようとする輩も現れることでしょう。

 実際に、今日の皇族は、あたかも‘主人’のように奉られています。首都東京の中心地の広大な敷地内で多くの‘使用人’に囲まれながら住い、全国各地を訪問すれば、誰もが礼儀正しく深々と頭を下げるのですから。しかも、今般、遂に批判の声が噴出したもの、進学や就職等にあっても公的な特別待遇を受け、メディアも常に‘さま’付けの敬称をもって‘上位者’として報じますので、国民は、否が応でも‘世襲による特別の身分’が存在することを意識させられるのです(国民に対する一種の‘刷り込み’・・・)。

 それでは、こうした皇族という特別の存在を目の当たりにして育つ日本国の子供達は、“超保守派”の人々が主張するように、世界に誇る皇室を頂く最も恵まれた幸せな子供達なのでしょうか。皇室がすっかり世俗化し、神話に由来する神聖性並びにそれに付随する伝統的な役割を失った今日、皇族の存在は、日本国民のメンタリティーを卑屈にこそすれ、伸びやかな精神を育むとは思えません(下僕メンタリティーの育成は、世界権力にとっても好都合・・・)。‘菊のカーテン’と相まって、国民の思考や理性の成長阻害要因となり、国民にとりましては‘菊の天井’ともなりかねないのです。

 民主主義国家にあっては、もはや、為政者と国民との間には身分の違いはなく、一方的な支配・被支配の関係にあるわけでもありません(民主主義とは、本来、国民自治を意味する・・・)。それにも拘わらず、伝統的な権威としての天皇だけは、憲法上の役割をもってその特別の身分が認められてきたのですが、この‘特別の身分’は、一部の人々による単なる個人崇拝、あるいは、外部者による日本国民のコントロール手段に堕しつつあります。果たして、既に形骸化し、かつ、平等原則からも逸脱する現行制度を残すことが、未来の日本国民にとりまして望ましいことなのでしょうか。昨今、政治サイドでは、与野党共に皇位継承の安定性確保を課題としていますが、方向性が真逆なのではないかと思うのです。

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