万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

‘象徴天皇’を考える-不可能要求の問題

2024年08月30日 12時01分52秒 | 日本政治
 現行の日本国憲法は、不可能な事を国家並びに国民に強いてきました。常々議論されてきたように、憲法第九条を見ましても、これを文字通りに解釈すれば、日本国は、他国から侵略を受けても自然権ともされる正当防衛権さえも発動できない無防備状態に陥りかねません。そしてもう一つ、不可能条項を挙げるとすれば、それは、第一条が定める象徴天皇なのではないかと思うのです。

 日本国憲法の第一条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあります。大日本帝国憲法の第一条は、「大日本帝国ハ万世系ノ天皇コレヲ統治ス」と記していますので、それがポツダム宣言を受け入れた結果としてのGHQの方針であれ、現行の憲法の制定は、統治者、すなわち、政治権力を行使し得る立憲君主に類する立場にあった天皇を‘象徴’とすることで、日本国の体制を大きく転換させたとも言えましょう。

 戦後の日本国の民主主義体制への転換を、まさしくこの第一条が‘象徴’にしたために、国民の多くは、象徴という新たな天皇の立場を歓迎したことでしょう。また、日本国の歴史を通しての伝統的な天皇像は、権力者ではなく祭祀を司る権威者でしたので、この転換をもって、明治維新を機として導入された西欧由来の立憲君主モデルから日本古来の在り方への回帰(復古)として捉えた人も少なくなかったかもしれません。何れにしましても、憲法上にあって天皇を国家並びに国民統合の象徴したことに対して、圧倒的多数の国民が賛意を示したのです。

 ところが、憲法における‘象徴天皇’の公的役割については、全くもって不明瞭です。現行の憲法にあって天皇の具体的な公務として定められているのは、第六条の任命権や第七条の国事行為のみです。このことは、憲法の制定過程にあって、草案の作成者達の専らの関心が、‘総覧者’とされながらも立憲君主として天皇が有していた統治上の政治権力をなくし、名実ともに形骸化することにあったことを示しています。言い換えますと、伝統的な天皇の役割が十分に考慮されたわけではなく、それ故に、‘象徴’という天皇のシンボル化の一言をもって第一条の条文が決定されたのでしょう。現憲法の制定は、GHQによる占領期に行なわれていますので、‘象徴’という発想にも、明治期と同様の‘外来性’が認められます。

 かくして、‘象徴天皇’は反対や反発を受けることも、深刻な混乱を招くこともなく、戦後にあって国民に受け入れられることとなったのですが、今日に至り、憲法制定時に天皇を公的な役割を曖昧にしたことが、混乱を齎しているように思えます。出発点にあって、一個の個人としての人格をもつ人というものが国家や国民統合の象徴となり得るのか、という根本的な議論が抜け落ちていたからです。国旗や国歌、あるいは、国花や国鳥と言ったシンボルやエンブレムは非人格的な存在ですので、存在するだけで象徴することができます。誰かの権利が侵害されたり、政治的な影響を受けることもありません。その一方で、人には自らの意思があり、人格も備わっています。象徴の地位が世襲制の下での自動的な継承ともなりますと、これは、やはり不可能、もしくは、可能であってもその弊害が大きすぎると言わざるを得ないのです。

 たとえ神武天皇に遡る血統の飛び抜けて濃く引く人が就任したとしても、一国を象徴し得るほどの高潔な人格、あるいは、徳の高さが必ずしも保障されているわけではありません。世襲である以上、偶然に左右されるのであり、制度上、最悪の場合には、強欲で極悪非道な人物であっても世襲によって一国の象徴となることができます。世襲制がもたらす惨事は、象徴の地位に限らず、古今東西を問わず、人類が痛いほどに経験してきたことです。しかも、先日の記事で述べたように、今日の天皇にあっては、地位と血統が分離していますので、ごく普通の国民の一人が日本国を象徴するという、訳の分からない事態に至ってしまうのです。

 また、現行の憲法では、天皇を国家のみならず、国民統合の象徴ともしています。曖昧な表現ではありながら、一先ずは、これをもって公的な役割としているのですが、統合機能を一人の人格が果たすことは、上述した国家の象徴以上に至難の業です。誰もが否定し得ないほどの飛び抜けた超越的なカリスマ性が備えていたとしても、全ての国民に対して求心力を発揮することは不可能とも言えましょう(完璧であることが嫌われたり、忌避感を持たれなる理由となることも・・・)。あるいは、カリスマとまでは言わないまでも、球心型の統合には、最低限、全国民の自発的な合意を要するのですが、世俗の欲にまみれた皇室の現状見る限り、国民の多くが天皇や皇族の存在をもって日本国民が纏まっているとは見なしていないことでしょう(無関心な国民も多く、進学問題のみならず、皇位継承に関しても世論の分裂が見られる・・・)。

 以上に述べてきましたように、合理的かつロジカルに考えますと、そもそも不可能な事柄を現行の憲法は要求していることとなります。人類というものが理性を高め、精神的にも進化を遂げているとしますと、国家の体制も成長に合わせた改良や調整が必要であり、かつ、それこそがより自然な対応なのではないでしょうか。既に窮屈で不合理となった体制に国民を無理に押し込めておく方が、よほど国民の精神的な成長を阻害するのではないかと思うのです。

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