近年、世界各地において不可解な事件や辻褄の合わない出来事が頻発するにつれ、‘陰謀’という言葉を耳にする機会も飛躍的に増えました。かつてはマニアックな人々の好奇心を引き寄せてき‘陰謀’なる言葉は、今では、メディアなどでも堂々と語られるようになりました。しかしながら、その一方で、‘陰謀’という言葉は、さらなる混乱を招くことにもなったのです。
それでは、何故、‘陰謀’という言葉の一般化が、現実に対する正確な理解を妨げる要因となってしまったのでしょうか。その主たる原因は、‘陰謀という言葉には、以下に述べるように、その使われ方に違いがあるからなのでしょう。
第一の陰謀の使われ方は、陰謀の存在を否定する側が、陰謀の実在を信じている人々を揶揄するために使われるケースです。この使われ方は、メディアやウェブ記事などで頻繁に目にするものであり、通常、‘真面目であった○○さんが、陰謀論に嵌まってしまって残念・・・’とか、‘何故、かくも人々は、馬鹿馬鹿しい陰謀を信じるのか’という、パターン化された論調で書かれています。こうした記事では、専門家によるもっともらしい心理分析まで付されており、読者に対して、陰謀を信じる人々は、理性を失った一種の‘狂信者’であるとするイメージを植え付けています。そして、‘陰謀論者’という呼び名は、簡単に嘘を信じて騙される愚かな人々、という嘲笑的な意味合いをも持つようにもなったのです。
なお、この使われ方は、とりわけ、トランプ前大統領が、‘ディープ・ステート’を政治の表舞台に登場させたため、米民主党を中心とするリベラル派の人々がトランプ前大統領、あるいは、共和党支持者を批判する際に目にするようにもなりました。言い換えますと、政治的な対立軸が加わったことで、余計に踏み絵的な役割をも担ってしまったようにも思えます。このことは、理性派を任じていたリベラルの人々も、内心において陰謀の可能性を認めていたとしても、口に出せない状態に置かれることをも意味します。
その一方で、第二の陰謀の使われ方とは、上記の陰謀の実在性を否定する人々こそ、陰謀を企む側の一員であると見なす場合です。つまり、‘陰謀論という名の陰謀’と言うことになり、ここに、どんでん返しがあるのです。考えても見ますと、陰謀を企む側はその存在を一般には知られたくないのですから、陰謀の存在を否定したいに決まっています。この観点からしますと、第一の使われ方もあり得るのであり、とりわけメディアを介した否定論が多く見られるのも、この主張の信憑性を高めています。今日のメディアは、陰謀実在論者が主張するように、世界経済フォーラムをフロントとする世界権力の強い影響下にあることは否めません。
陰謀論とは、ケネディ大統領暗殺事件を受けて、オズワルド単独犯説に疑問を抱く国民の声を封じるために、CIAが開発した世論操作の手法であるとする指摘がありますが、近年、CIAによる工作活動の実態が漏れ伝わるにつれ、陰謀論も、同機関の活動の一環であった可能性は高まるばかりです。日本国内でも、安部元首相暗殺事件は、現場の状況や手製の銃器の性能からすれば物理的に不可能であり、山上被告単独犯説は成り立たないにも拘わらず、疑問の声は‘陰謀論’としてかき消されています。
以上に述べたように、陰謀論という言葉が使われるに際して正反対の見方があり、こうした違いが混乱の一因であるとしますと、両者を明確に区別した方が望ましいこととなりましょう。どちらの意味で使っているのか、直ぐには判断できないからです。そこでまず、何らかの事件等が発生した場合、それが、何者かによる謀略や工作活動である可能性を指摘する、あるいは、合理的に推理する場合は陰謀説と表現し、それが何れの立場であれ、陰謀の打ち消しを目的とする世論操作や世論誘導が強く疑われる場合のみ、陰謀論という言葉を使うというのはいかがでしょうか。
陰謀論という言葉が出てきますと、正当な根拠を備えた真っ当な疑いや不審点の指摘であっても、どこか‘うさん臭く’聞えてしまいます。陰謀論という言葉を聞いただけで、条件反射的に拒絶反応を示す人も少なくないことでしょう。しかしながら、陰謀説という表現であれば(謀略説でも工作説でも構わない・・・)、受け取り方が違ってきます。‘この事件については、陰謀論があります’と言うのと、‘陰謀説があります’と言うのとでは、聞き手が受ける印象が随分と違うのです。後者のほうが遥かに現実味がありますので、多くの人々が事実の徹底究明の必要性を認識すると共に、真剣にリスク対策を考えるようになるのではないかと思うのです。