新元号、4案から選定…改元手続き「平成」踏襲
天皇譲位(退位)問題に伴い、政府は、改元については昭和天皇崩御時の手続きを踏襲する方針のようです。天皇の代替わりと改元とを一致させる、すなわち、天皇の在位期間にあわせて天皇の諡号をもって元号として年を数える紀年法は、明治以降に制度化されていますので、これを機に、本来、改元のあり方をも議論すべきなのでしょうが、本日の記事では、平成という元号の問題について考えてみたいと思います。
改元の手続きとは、然るべき学者に委託し、提出された元号案の中から適切な元号を選ぶというものです。元号とは、645年の大化の改新に際して唐の制度を模して導入されたため、選定される”然るべき学者”とは、国学者ではなく東洋史、特に中国古典に通じた識者です。平成の元号の名付け親は東洋史家の山本達郎とされていますが、氏は東南アジア史が専門ですので、陽明学者であった故安岡正篤氏が過去に提示した案を山本氏が再提出したとする説にも信憑性がないわけではありません。何れにしても、平成という元号は、他の二人の学者の案が提案した”修文”並びに”正化”が、共にローマ字表記では昭和と同じ頭文字がSとなるため、凡そ自動的に決定されてしまったそうです。
平成という元号については国民からそれ程には歓迎されたわけではなく、悪い予感を感じるとする意見も少なくありませんでした。何故ならば、過去の元号からしますと、”平”の文字が入る元号の時には、藤原広嗣の乱(天平)、平の将門の乱(承平)、新羅の賊の襲来(寛平)、平治の乱など、内乱等の国家的危機が起きるてきたからです。このため、縁起を担いでか、南北朝時代の南朝方の元号である正平(1350~1358年)以来、”平”の文字の使用は避けられてきたのです。
そして、もう一つ、この元号が日本国民に胸騒ぎを覚えさせるのは、北朝鮮風味があることです。”平”とは、北朝鮮の首都名である平壌にもありますし、”成”の文字は、同国の建国の父とされる金日成を連想させます。単なる偶然なのかもしれませんが、”平”を元号に用いないとする慣例を破って、何故、北朝鮮と関連するこの二つの文字を敢えて選んだのか、不思議でならないのです。誰も口にはしないものの、気が付いている国民も少なくなかったはずです。
そこで、平成と北朝鮮との関連性を探ってみますと、幾つかの接点があるようです。安岡正篤氏については大阪府出身とされながら、少なくともネット上では、両親の名や職業といった出自に関する情報は皆無です。晩年、婚約を交わしていたとされる占い師の細木数子氏についても、土佐の名家の出とされながら、何故か、賠償金の支払いや米支援の実施など、過去に北朝鮮寄りの発言をして批判を受けています。霊感商法まがいの行為も、どこか、朝鮮半島系のカルト教団との関連を推測させます。安岡氏を師と仰いだ政治家には、故吉田茂氏、故佐藤栄作氏、故福田赳夫氏、並びに、中曽根康弘氏といった錚々たる人物の名も挙がっていますが、朝鮮半島出身との指摘がある小和田恆氏も弟子とされているのです。
平成とは、果たして、北朝鮮に因んだ元号であったのでしょうか。山本達郎氏についても、創価学会の池田大作氏のペンネームが山本伸一郎、後に山本伸一であり、苗字が一致するところも気にかかるところです。何らかの勢力によって元号にマーキングされるリスクを考慮しますと、改元の手続き、並びに、元号そのもののあり方については、国民と共によりオープンに議論すべきなのではないでしょうか。
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天皇譲位(退位)問題に伴い、政府は、改元については昭和天皇崩御時の手続きを踏襲する方針のようです。天皇の代替わりと改元とを一致させる、すなわち、天皇の在位期間にあわせて天皇の諡号をもって元号として年を数える紀年法は、明治以降に制度化されていますので、これを機に、本来、改元のあり方をも議論すべきなのでしょうが、本日の記事では、平成という元号の問題について考えてみたいと思います。
改元の手続きとは、然るべき学者に委託し、提出された元号案の中から適切な元号を選ぶというものです。元号とは、645年の大化の改新に際して唐の制度を模して導入されたため、選定される”然るべき学者”とは、国学者ではなく東洋史、特に中国古典に通じた識者です。平成の元号の名付け親は東洋史家の山本達郎とされていますが、氏は東南アジア史が専門ですので、陽明学者であった故安岡正篤氏が過去に提示した案を山本氏が再提出したとする説にも信憑性がないわけではありません。何れにしても、平成という元号は、他の二人の学者の案が提案した”修文”並びに”正化”が、共にローマ字表記では昭和と同じ頭文字がSとなるため、凡そ自動的に決定されてしまったそうです。
平成という元号については国民からそれ程には歓迎されたわけではなく、悪い予感を感じるとする意見も少なくありませんでした。何故ならば、過去の元号からしますと、”平”の文字が入る元号の時には、藤原広嗣の乱(天平)、平の将門の乱(承平)、新羅の賊の襲来(寛平)、平治の乱など、内乱等の国家的危機が起きるてきたからです。このため、縁起を担いでか、南北朝時代の南朝方の元号である正平(1350~1358年)以来、”平”の文字の使用は避けられてきたのです。
そして、もう一つ、この元号が日本国民に胸騒ぎを覚えさせるのは、北朝鮮風味があることです。”平”とは、北朝鮮の首都名である平壌にもありますし、”成”の文字は、同国の建国の父とされる金日成を連想させます。単なる偶然なのかもしれませんが、”平”を元号に用いないとする慣例を破って、何故、北朝鮮と関連するこの二つの文字を敢えて選んだのか、不思議でならないのです。誰も口にはしないものの、気が付いている国民も少なくなかったはずです。
そこで、平成と北朝鮮との関連性を探ってみますと、幾つかの接点があるようです。安岡正篤氏については大阪府出身とされながら、少なくともネット上では、両親の名や職業といった出自に関する情報は皆無です。晩年、婚約を交わしていたとされる占い師の細木数子氏についても、土佐の名家の出とされながら、何故か、賠償金の支払いや米支援の実施など、過去に北朝鮮寄りの発言をして批判を受けています。霊感商法まがいの行為も、どこか、朝鮮半島系のカルト教団との関連を推測させます。安岡氏を師と仰いだ政治家には、故吉田茂氏、故佐藤栄作氏、故福田赳夫氏、並びに、中曽根康弘氏といった錚々たる人物の名も挙がっていますが、朝鮮半島出身との指摘がある小和田恆氏も弟子とされているのです。
平成とは、果たして、北朝鮮に因んだ元号であったのでしょうか。山本達郎氏についても、創価学会の池田大作氏のペンネームが山本伸一郎、後に山本伸一であり、苗字が一致するところも気にかかるところです。何らかの勢力によって元号にマーキングされるリスクを考慮しますと、改元の手続き、並びに、元号そのもののあり方については、国民と共によりオープンに議論すべきなのではないでしょうか。
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国民全員に影響を与えながら、密室の中で僅か数名で決めてしまう現行の元号のあり方には疑問があります。皇室については、知りたくない事実を知ることになっても、原点に帰って歴史を検証し、じっくりと考えてみる必要があるように思うのです。
確たる証拠も無いのに、大それた事を仰っています。 単なる言い掛かりでは無いので
しょうか。
【このブログ記事に秘められた意図】が皆目見当も付きません。
ここは、歴史を紐解いて、古の知恵を拝借しましょう。
高尾一彦著 『近世の日本――新書日本史⑤』 講談社現代新書 [1998年4月25日第九刷発行]から一部引用
≪ 第1章 ― 天下統一 3 ― 江戸幕府 42頁
豊臣氏滅亡 49頁
『 さて慶長十九年(1614)は秀吉の十七回忌にあたる。 秀頼は京都の方広寺に大仏供養と鐘の鋳造を計画した。 家康はこの機会に豊臣氏の問題を片づけようと決心した。この年の早々に、ウィリアム・アダムズ(1564~1620)から弾丸材料の鉛を買いこみ、
イギリスから大砲や火薬類を買っている。 つまり戦闘準備をしたわけだ。
そして大仏供養のまぎわになって、家康はその中止を命じ、豊国祭の臨時祭礼も延期
させた。 例の方広寺の鐘の「国家安康、君臣豊楽」の銘が口実であった。
どうやら、家康は秀頼に謝罪を要求し、あるいは人質を出すことや転封の要求をつき
つけたらしい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・この伊勢おどりのまっ最中に、家康は大坂討伐の命令を下したのである。
秀頼方も籠城の準備をしていた。 大坂城は関東方によって包囲された。 だがさすが、
天下の名城だけあってその守りはかたかった。 これがいわゆる大坂冬の陣である。
年の暮になって、やっと講和の交渉がまとまった。 家康はこの講和を利用してさら
に武備をととのえ、大坂城の堀を強引に埋め、秀頼には転封をせまった。・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・やがて大坂夏の陣が開始される。 堀を埋められたことで、手足をもがれたも同然の大坂城はついに落ちた。 豊臣氏は、家康の孫千姫を逃がして、滅亡したので
ある。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・いずれにしても、大坂冬夏両度の陣で豊臣氏は滅び、家康の最終目標は達成された。 こうして元和偃(えん)武(ぶ)(大坂夏の陣を最後に大きな戦乱が絶えて天下太平になったこと)がおとずれる。 安心した家康は翌元和二年に死んだ。 だが、家康はすでに早く将軍職を秀忠に譲り、徳川氏世襲の慣行を作り出しておいた。 秀忠の幕府は基礎がためがもはやできあがっていた。』 ≫
以上、見て取れる様に、家康は、豊臣家を抹殺する意図を隠して、方広寺の鐘の
「国家安康、君臣豊楽」の銘に言い掛かりを付けました。
このブログ記事に秘められた意図が、家康と似た様な意図だとは絶対違うと思います。
此の古事は役に立たないかも知れません。
しかし、飽く迄も仮定の話ですが、万万が一、いや億億が一、即ち京(けい=10の16乗)が一つに、秘められた意図が家康と似た様な意図だとすると、日本人は至宝を失い、未来永劫悲しむ事になります。
これはもう、我が国の八百万の神々に皇室をお守りして頂く様にお願いする外有りません。
『皇室と日本人と日本国よ、永遠なれ。』
私が本記事を認めた意図とは、平成という年後の制定プロセスが非公開の密室で行われたため、国民にぬぐい難い不信感が残ることになった、ということを示すことにあります。全く根拠がないわけではなく、この年号の事実上の制定者であるとされる安岡正篤氏等については出自不明であり、調べてみますと、北朝鮮やカルトとの接点も浮かんできます。三角四角さまは、まずは、明治維新の背景、皇統への疑惑、並びに、現在の皇室の不祥事やスキャンダル等についてお調べくださいませ。何れも信憑性を否定できず、こうした情報を知れば、この記事の主旨をご理解いただけるのではないかと思います。
元号の「平成」、愛子様の「敬宮愛子(としのみや あいこ)」のお名前、
確かにそれらしい理由は発表時に付けてありますが、
元号は、国民を思い鼓舞する意図共感に乏しく、
愛子様のお名前も皇室らしく感じません。
共に故事・漢籍の素養がある方からの提案とは思えずにおりました。
(理由は後付けでは?)
「平成」→「たいらになる」 を想起させる
文字を選ぶなんて、、どなたのセンス?
と思っておりました。
記憶を辿りますと、小和田家の家族写真には金日成花が映っていたり、愛子さんの御印である五葉躑躅については、ツツジが朝鮮半島で親しまれている花であるのみならず、朝鮮労働党のバッジマークにも極似しております。また、日本国でも人名として使われてはいますが、”愛”という文字をストレートに読ませるセンスは、やはり、朝廷の伝統にはそぐいません(柳原愛子の愛は”なる”と読む…)。皇室の変質は、危機的状況に至っているように思えるのです。
ブログ主の倉西雅子に替わって、日本書紀紀年法を専門としております倉西裕子が返答させていたただくことを、どうそ、お許しくださいませ。
さて、実際に使われたと推測されるはじめての元号ということでしたならば、法隆寺釈迦三尊像の光背銘文などから、591年を元年とする「法興」のほうが、あり得るのではないかと考えられます。また、継体天皇の元年に元号が建てられたとのことですが、そのような説は存じ上げておらず、継体建元の記事とは、具体的にどの記述のことであるのか、日本書紀の原文においてお示しいただけましたならば幸いでございます。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。